第二章 君の光 5

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 ゲルツハルト修道院で待機していたエングラー大司教が、みずから手綱を握ってガレン城砦まで駆けつけたのは、使者を出してからちょうど四日目の朝だった。到着は夕刻になるだろうと予定していたスペイギールたちにとって、これは思わぬ僥倖だった。
 寝る間も惜しんで馬を走らせてきた大司教に、ひとまず食事と休憩を勧める。彼が休んでいるあいだも、スペイギールたちは侯爵とともに広間で話し合いを続けた。午後になり、そこへ旅の疲れを癒やした大司教が加わった。

「これがその書簡です」

 バルナベが携えてきた書簡を渡し、詳細を口頭で説明する。エングラー大司教が状況を把握するや否や、スペイギールは身を乗り出して訴えた。

「おれは受けた方がいいと思います」
「スペイギール様、お待ちください」

 侯爵が制止した。エングラー大司教も眉を寄せたまま、上座のスペイギールへ視線を向ける。

「バルナベの提示した条件は、あまりにもこちらに有利です。とてもエウルや国王の意志とは思えません」
「けれど、その書簡の封蝋はたしかにエウルのものだし、署名も二人のものでしょう。バルナベがそんなものを捏造する理由がない」
「はい、それは確かに。だからこそ、あちらの腹の内が読めないのです」

 侯爵は机の中央に置かれた書簡へ目を向けた。上質な羊皮紙は皆の手に回されて、すっかりくたびれてしまっていた。

「……誰かが、おれのことを王宮へ漏らしたと思いますか」

 スペイギールの問いかけに、侯爵はただ沈黙した。大司教もじっと少年に焦点を定めるだけで、口を開こうとしない。
 ラズウェーン、とスペイギールが背後を振り返る。今度は躊躇のない応えがすぐに返った。

「間諜か、あるいは密告者か。いずれにしろ、スペイギール様の近況をアストルクスへ報せた者の存在は否定できません」

 こくりとスペイギールはあごを引いた。

「それなら、きっといい機会だと捉えたんだろう。たとえあちらの方が兵力は勝っているとしても、長期の戦役で疲弊しているのは同じはずだ。しかも予算が付かず、国王と枢密院は対立していた。バルナベも言ったとおり、重税を課せられた国民の怒りも爆発寸前――となれば、和議を提案してきた動機にはなりませんか」
「いいえ。スペイギール様、騙されてはいけません」

 エングラー大司教が拳をわななかせながら否定した。

「あの裏切り者のエウルと血に飢えたジャン=ジャックが妥協するはずがありません。ヘリオスと四晶家の首を差し出せと言うのならともかく、墓所の鍵のみで和議を為そうと本気で考えるわけがない」

 大司教が腹の底から湧いてくる激情に震える一方で、正面に座る侯爵は沈着さを保ったままだった。

「私もエングラー殿の仰るとおりだと思います。ジャン=ジャックのヘリオスへの執念はもはや狂気の域ですし、ダライアスやヘリオスの首を取らねばエウル=ヘリオス家の足元は盤石にはならない。十年以上の歳月を費やしてきた作戦をこうも容易く終わらせる理由が資金不足というのは、いささか納得がいきません」
「でも、バルナベはダライアスの腹心のひとりと聞きました。わざわざ腹心を捨て駒にするでしょうか? 第一、そんな損な役割を請け負うような男には見えませんでした」

 スペイギールの反論に、侯爵も大司教も口を閉ざす。

「……何か、別の思惑があるのかもしれません。和議でも、スペイギール様の追放でもない、他の何かが」
「他の?」

 はい、と侯爵はうなずいたが、言葉が続かなかった。
 エオルゼも答えを求めて沈潜する。スペイギールと支援者が揉めている隙を突いて挙兵するわけでもない、しかし対話で内乱を終わらせるつもりでもない――その裏に潜むものの糸口は、暗闇に隠れてなかなか見つけられない。
 ふと、スペイギールは顔を上げると、ラズウェーンを呼んだ。忠実なラズウェーンはすぐに思索を中断して、主の声に耳を傾けた。

「そういえば、バルナベが言ってた墓所の鍵って何?」

 エオルゼも思考の海から抜け出す。どうやら自分たちはずいぶんな失態を侵していたらしい。今ごろスペイギールに話していないことに気づくとは。

「アストルクスのジ=ジェルフ大聖堂内にある、ヘリオス家代々の当主が眠る墓所の鍵です」

 ラズウェーンの返答にスペイギールは眉をひそめた。

「代々の? そんなものがアストルクスに?」
「はい。墓所には母なる女神と父なる始祖が残された聖遺物も祀られています。また、かの場所の出入りは、女神の血を引く者でなければ不可能とも言われています。我々がアストルクスを逐われた際に施錠したままですから、エウルはおのれの正統性を知らしめるためにも鍵を手に入れたいのでしょう」
「そんなものがあるなんて、おれは知らなかった」
「今日までお話しする機会を設けられず、申し訳ございません。アダール様から、このラズウェーンが預かっております。この墓所の鍵こそが、スペイギール様がヘリオスの当主である証です」

 鍵自体は片手に収まる大きさだ。鋼を金の箔で被い、持ち手は曲線が複雑に絡みあう意匠になっている。見た目より重みはあるものの、携帯食や小刀などと一緒に腰袋に入れられるような品だ。

「……鍵ひとつで、十何年も殺し合ってきたのか」

 言葉になり損ねた嘆声は、喘ぐように落ちたため息に消えた。スペイギールは項垂れたあと、何かを断ち切るように頭を振る。

「それでこの戦いが終わるなら。平穏な生活が保障されるなら、安いと思う」
「スペイギール様……!」

 悲鳴に似た響きでエングラー大司教が呻いた。侯爵はくちびるを硬く結んだまま、一言も発しない。顔色はもはや透けるほどに青白い。
 壁を背に控えていたラズウェーンが歩み出る。彼は優雅で無駄のない身のこなしでスペイギールのかたわらに膝をつき、若き主を仰いだ。

「鍵を手放すということは、名実ともにヘリオスでは無くなるという意味です。それをお分かりですか」

 スペイギールは深い智慧を湛えたラズウェーンの双眸をまっすぐに見つめ返した。

「わかっている。けれど、おれにはきっと不相応だ。命を賭けて守れるほどの力も無い。それなら、エウルに渡して平安を買った方がいい」
「あなたの祖父君は、必ずやアストルクスへ帰るとラスミアに誓いながら亡くなりました。父君も、兄君も、皆アストルクスに焦がれていた。それでも、エウルへ譲りますか」
「家族には悪いと思う。けれど、ヘリオスの血が絶えるよりはよっぽどいい」
「ヘリオスを名乗ることは二度とできません。エウル=ヘリオスこそが主の末裔だと世に喧伝され、史書にはダライアスの名が刻まれる。あなた方は主に仇なした叛逆者として、未来永劫語り継がれるでしょう。それでもよろしいですか」

 スペイギールの顔が苦渋に歪む。だが、瞳に宿る光の強さは揺らがない。

「それでも……、おれはこれ以上戦いたくない。おれも、ラズウェーンも、エオルゼやダシュナやバルクだって、みんな家族をエウルに殺された。ただの鍵ひとつのために、ヘリオスの矜持のために、みんな死んだんだ。もうこれ以上はまっぴらだ」

 スペイギールの喉から絞り出された声は塔の壁に吸いこまれて、跡形も残さずに消えていく。しかし、エオルゼの胸にははっきりとした痕跡を残していった。
 つま先から起こった静かな身震いが脊椎を駆け上って脳天へ抜ける。それが何なのか、エオルゼにはわからなかった。ただ、暗く覆われていた目の前が一気に開けたようだった。

(何という選択をするのだろう――)

 エオルゼが父から受け継いできたあらゆるもの――エルー家の者としての誇りや女神の末裔としての矜持が、堅固なはずだったそれらが、砂の城のように崩れていく。
 それはスペイギールにとっては親兄弟から受け継いだ、ヘリオスの名誉や総大司教としての地位や栄光だ。
 彼は長い時をかけてヘリオスが築き、しがみついてきたそれを、みずからの手で放棄するのだ。もはや形骸化したからと言って。

「わかりました」

 ラズウェーンはうなずくと、すくりと立ち上がり、いまだに血色の悪い顔を晒す侯爵と大司教に告げた。

「我ら四晶家は、スペイギール様のご意志に従います。墓所の鍵もエウルへ譲渡しましょう」

 緊張に強ばっていたスペイギールから力が抜ける。安心したのか、くちびるの端にほのかな笑みが浮かんだ。
 その一方で、侯爵と大司教の落胆は大きかった。まさか、アストルクスからの追放を経験したラズウェーン自身が、墓所の鍵を手放すわけがないと考えていたのだ。アダールから鍵を預かった彼さえうなずかなければ、スペイギールを説得できるとも。
 その予想ははずれ、ラズウェーンは主君であるスペイギールに従うと宣言した。二人は改めて、四晶家がヘリオスの僕であることを思い知ったのだった。

「……あなた方の決断はわかりました。私たちにも考える時間を頂けませんか」

 侯爵の申し出に、頭を抱えていた大司教も同意する。

「侯と二人きりで相談する機会を頂きたい。よろしいですか、スペイギール様」

 もちろん、とスペイギールは重々しくあごを引いた。

「祖父の代から、あなた方にはとてもお世話になりました。受けた恩をけっして忘れたわけじゃありません。右も左もわからない無知なおれをヘリオスの当主として立ててくれていることも、こうして匿ってくれていることも、感謝しています。結果的にはあなた方を裏切る形になるのかもしれません。けれど、おれはこの無益な戦いを続けて、これ以上人を死なせたくないんです。どうかわかってください」

 スペイギールは立ちあがると、彼らに向かって深く頭を下げた。彼なりの誠意の表れだった。

「……あなたのお気持ちはよく理解しております。裏切りだとは思っておりませんよ」

 ゆっくりと侯爵も腰を上げる。眼窩に落ちる影は濃く、この数日で一気に老けこんだように見える顔には、それでも気休めの笑顔があった。

「ただ、我らにも我らの立場や責任がございます。我々こそスペイギール様を裏切ることになるやもしれません。それをご承知ください」
「……わかっています。何があっても、お二人がヘリオスの恩人であることは変わりません」
「我らもです。ヘリオスこそが女神の末裔である事実は、何者にも揺るがせません」

 侯爵と大司教はスペイギールに退室の辞を告げて広間を去った。
 彼らの気配が消えると同時に、ふつりと糸が切れたようにスペイギールの脚から力が抜けて、椅子に頽れる。よほど神経が昂ぶっていたのだろう、そのままぐったりと背もたれに身体を沈めてしまった。
 天井へ向けられた額は紙のように白く、短く切りそろえた前髪が皮ふに張りついている。「白湯を用意しましょう」とエオルゼが動くと、掠れた声で呼び止められた。
 スペイギールの青く澄んだ双眸が揺れていた。さきほどまでひとりで壮年の男と対峙していた凜としたそれではなく、幼さと脆さを曝け出した視線がエオルゼに注がれる。懐かしささえ覚えるスペイギールの素顔を、正面から受け止めた。

「何か甘い物が無いか聞いてきます」

 エオルゼはかすかに微笑んで広間を出た。それだけでスペイギールには伝わったはずだった。
 背く理由など無かった。エオルゼもアストルクスを知らない世代だ。ラズウェーンさえも墓所の鍵を手放すと言うのなら、逆らう意味がどこにあるだろう。

(それに……)

 エオルゼは胸の中心を押さえた。スペイギールが放ち、突き刺さった矢は、すでに自分の中に根づいてしまった。
 翌日はひっそりと一日が過ぎていった。
 そして明くる朝――バルナベとの期日を明日に控えた早朝。カールステット侯爵とエングラー大司教は、スペイギールの決定に従うと告げた。

 

 

 

 バルナベとの会談は、エオルゼたちが気構えていたよりもずっと順調に進んだ。
 侯爵と大司教はスペイギールに賛同したものの、バルナベの挙げた条件を鵜呑みにするのには反対だった。スペイギールも思うところがあったらしく、最後の一日をかけて要望をまとめ、アストルクスへの正式な文書としてまとめた。
 カールステット侯爵とエングラー大司教が条件として提示したのは、全員の命と最低限の財産の保障、そしてル・マヌンの国民として生活する権利だった。
 くわえて、恒久的に一切の懲罰を付加しないこと。国王や総大司教に仕えたい者がいるならば、公正な判断に基づいて出仕を認めること。
 バルナベはは読み上げられたそれらの要望に対して、独特の笑顔で快諾した。しかし、続いた項目に、妖しげな微笑みは凍りつく。
 スペイギールが挙げたのは、四晶家の行く末についてだった。
 そもそもエウル=ヘリオスが四晶家を国外追放ではなく手元へと望んだのは、おのれが四家をまとめる宗家であると誇示したいからだ。群青色の正装をまとう四晶家を自分の横に侍らせることが叶えば、ダライアスの積年の野望はついに実現したと言えるだろう。
 けれどもそれは、家族を殺された彼らにとっては屈辱でしかない。エオルゼは父親を失い、ダシュナやバルクも親兄弟を奪われた。ラズウェーンも家督を譲った息子を失った。
エウル=ヘリオスに膝を折り、従属を女神に誓うなど、情が許せるはずがない。

「彼らがダライアスに仕えることを望むのなら、おれは止めない。けれど、どうしても仇には忠誠を誓えないと言うのなら、おれと同じように女神の末裔の名を捨て、ル・マヌンを出る。そして二度と、国王や総大司教の地位を脅かす真似はしない。――これがおれからの条件だ。アストルクスへそう伝えてくれ」 
「……畏まりました。王都へしかとお伝えいたしましょう」

 バルナベは恭しくスペイギールからの書簡を受け取ると、アストルクスへの帰路に就いた。
 王都はスペイギール・ヘリオスと署名された羊皮紙に目を通すや否や、忌々しげに握りつぶすだろう。特にスペイギールが掲げた要求は、ダライアスにしてみれば妥協できない内容だ。
 この交渉は円滑には進まない。必ずや、王宮の議場は紛糾する。
 四晶家としては相手の出方をうかがい、底意を探る心算だった。返答が届くのは数か月後だろう。その頃には木々が黄金色に染まり出していると思われた。
 地境に位置する城砦にいつまでも留まっているわけにもいかないので、エオルゼたちはゲルツハルト修道院へ戻り、都からの返答を待った。
 しかし予想はことごとく裏切られることになった。
 バルナベがふたたびガレン城砦に現れたのは、書簡を託してからわずかひと月の後だった。そして彼はスペイギールの前で、彼の要求がすべて承認されたと、乾いたくちびるをニタリと歪めながら告げたのだった。