第二章 君の光 4

Back / Index / Next

 夏至祭からすでにふた月近くが過ぎた盛夏の午後。昼食を終え、午後の日課に勤しむ修道院の静寂を破ったのは、私邸へ戻ったカールステット侯爵からの使者だった。
 報せを受けたエオルゼは、セインと剣の稽古をしていたスペイギールを連れて、使者の待つ参事会室へ向かった。庭を横切る回廊で四晶家の顔ぶれがそろう。
 全身を汗だくにしながらも息を整える暇を惜しんで謁見を願った使者は、大扉から現れたスペイギールの姿を認めるや否や、その場に跪いた。額を濡らす汗はまだ乾いておらず、前髪はしとどに濡れている。

「スペイギール様にご報告いたします。昨日、クレンマー伯爵領に接するガレン城砦に、ダライアス・エウル=ヘリオスからの使者と名乗る者が現れ、スペイギール様へのお目通りを願っているとの報せが入りました。侯爵家が確認したところ、使者を名乗る男はアストルクスにて大司教位に就くバルナベ・オヴォラという者で、国王と総大司教からの書簡を預かっていると申しております。つきましては、スペイギール様には四晶家の方々とともに、ガレン城砦までお出ましいただけるようお願い申しあげます」
「バルナベだと!?」

 息を呑むスペイギールの隣で、エングラー大司教がその名に反応した。ラズウェーンの眉間にも深いしわが寄っており、動揺を隠せないでいる。

「バルナベだと、たしかに確認が取れたのか」
「はい。男は大司教位の星護符を身につけておりますし、随伴してきたクレンマー伯も認めております」
「……バルナベって、誰?」

 スペイギールが背後に立つエオルゼに、こそりと問うてきた。彼女のかわりにダシュナが低く答える。

「バルナベは、ダライアスの腹心のひとりと言われる男です。当然アストルクスでも影響力は大きく、高位聖職者としては五指に入る権力者でしょう。こんなところまで使いっ走りにされるような男じゃありませんよ」

 こそこそと額を寄せあう三人にバルクも加わる。

「大変欲深く、頭の切れる男だと聞いています。しかし、なぜ王宮の官僚ではなくバルナベが……」
「エウルが主体になって動いているのかもしれません。少なくとも、バルナベ・オヴォラを名乗り、大司教位の星護符を持っているのなら、本人と言えるでしょう」

 使者は侯爵からの書状を差し出した。スペイギールは受けとり、封蝋を割る。
 さらりとした手触りの羊皮紙にはカールステット侯爵家の紋章が捺され、セピア色の流麗な文字が侯爵からの要請を綴っていた。侯爵もすぐにガレン城砦へ向かい、その手前でスペイギールと落ちあうと記してある。

「バルナベは武装していないのか」

 ラズウェーンに問われ、ようやく汗の引きはじめた使者がうなずいた。

「はい。クレンマー伯も護衛の私兵も、武装は解いているとのことです。しかしながら、万が一に備えたうえでご支度ください」

 冷水を被ったように、エオルゼの頭の中心が冷えていく。これがスペイギールの初陣になるかもしれない。
 本人も悟ったのだろう、書状を持つ手がぴくりと震え、腕から肩へと緊張が走った。襟首からのぞく麦わら色の産毛が逆立つ。

「……バルナベの目的は? エウルからの書簡の内容は?」

 スペイギールのくぐもった問いに、男は頭を垂れて答える。

「それが、バルナベは申さないらしく……スペイギール様がお出ましになってから述べると、言っております」

 ジャン=ジャック国王とダライアス総大司教からの書簡は、ヘリオス家当主のスペイギールにしか渡せないと言いたいのだろう。

「……行った方がいいんだろうか?」

 スペイギールはラズウェーンをうかがった。思案に耽っていた彼は、険しい表情のままおとがいを引いた。 

「あちらの本意はわかりません。ですが、向こうがバルナベをわざわざ出してくるのなら、こちらもそれなりの対応を取らねばなりません」
「つまり、行くしかないんだな」

 混乱に沸いた参事会室に、突然の沈黙が降りた。波が引くように熱が引いていく。誰も肯定しなかったが、誰の目にも明白だった。
 スペイギールの決断は早かった。侯爵からの書状を丸めると、背筋を伸ばして威儀を正し、使者へうなずいてみせた。

「わかった。すぐに支度する」

 エオルゼたちは館へ戻り、スペイギールの装備を早急に整えた。彼のためにすぐに用意できるのは、普段の鍛錬で使用している傷だらけの鎧だった。模擬試合での刀痕は深くはないものの、細かな傷は数えきれない。せめてもと、跳ねた泥や汗の汚れをエオルゼはていねいに磨いてやった。
 布が汚れを落としていくにつれ、エオルゼ自身も刃が白い輝きを取りもどすように研ぎ澄まされていく。戦場へ赴くときには毎回覚える感覚だ。

(……戦いたくないと、あれほど訴えていたのに。むしろずっと早くに戦支度をするはめになるなんて……)

 バルナベが暗殺者とは思わない。彼はあくまで聖職者だ。聖典とペンしか持ったことのない男に人殺しは勤まらない。
 他の者がスペイギールを狙う可能性も上げられるが、それならばわざわざバルナベを王都から派遣する必要もないだろう。腹心を失うのはエウルだって避けたいはずだ。
 しかし、それはあくまで推測でしかない。だからカールステット侯爵はガレン城砦を直接の合流場所に指定しなかったのだ。
 翌朝、ゲルツハルト修道院を出立した一行は、翌日の昼過ぎに侯爵と無事合流した。そして改めてバルナベたちが武装していないことを確かめてから、城砦へ入った。
 ガレン城砦はその名のとおり、防衛に特化した造りだった。冬の重苦しい曇天の色をした石の砦は厚い防壁と壕に囲まれ、城砦の要である塔が地境となる草原を睥睨している。ル・マヌン建国以前の建物だが、今も侯爵の私兵が常駐し、出陣の際には拠点としての機能も担った。
 スペイギールと四晶家は、女神の末裔の証である群青色のローブを法衣の上にまとい、バルナベが待つ広間へ向かった。禁色である群青を用いることができるのは、アストルクスではエウル=ヘリオス家しかいない。一方、スペイギールは四晶家を全員背後に従えている。牽制には充分だろう。
 思惑どおり、塔の最上層にある広間でスペイギールを待ちかまえていたバルナベは、少年に続く四人の群青色に気圧された様子だった。それでも揺らいだのはほんの一瞬で、深く落ち窪んだ眼窩の底にある瞳に鋭い光を宿し、傲岸とスペイギールを出迎えた。

「おれが、スペイギール・ヘリオスだ」

 壇上に立ち、少年が高らかに名乗る。

「聖都アストルクスにて大司教位を任されております、バルナベ・オヴォラと申します。遠路はるばるお出ましいただき、まことにかたじけなく存じます」

 純白の法衣で身を固めた男は、カールステット侯爵と同年代だろうか。贅沢を極めた生活のわりには痩躯で、炯々とした目からは神経質な印象を受ける。その表情や態度には高い矜持と不遜が表出していたが、彼は使者としての礼節を守り、細い首を垂れた。同行したクレンマー伯爵もバルナベに従う。

「このたび、ダライアス・エウル=ヘリオス総大司教猊下と、ジャン=ジャック・プロスト・オル=ジェラク国王陛下から、スペイギール様への書状をお預かりしてまいりました。ご高覧いただけますようお願い申しあげます」

 バルナベが掲げた書状はラズウェーンを介してスペイギールへ渡る。恭しく差し出されたそれを、少年はこくりと喉骨を上下させてから受け取る。
 封蝋を割り、開いた羊皮紙の表面を、スペイギールの碧い瞳が睫毛を震わせながらゆっくりとたどった。たった一葉の書簡を読み終えるわずかな時間が永遠にも感じられる。息を殺してスペイギールの反応を待つエオルゼの背中を、つぅ、と冷や汗が伝った。逸る心を宥めながらひたすら待つ。少年はまだ書面から顔を上げない。
 どれほど待ったかはわからなかった。いつのまにか石のように固まっていたスペイギールの手が、かたかたと細かく震えていた。なめらかな羊皮紙にぐしゃりと大きくしわが寄る。しわがれた声で、彼は呻いた。

「……どういうことだ。これは……」

 バルナベは亢奮するスペイギールから視線をそらすことなく、恬然と応じた。

「その書簡に書かれているとおりでございます。総大司教猊下と国王陛下は、ヘリオス家へ講和を提案したいと仰せです」
「馬鹿な!」

 カールステット侯爵が叫んだ。「嘘じゃない!」とスペイギールが握りしめた書簡を侯爵へ突き出す。素早く書面に目を通した侯爵の顔はみるみると青ざめていった。ともに文面を追うラズウェーンのこめかみもひくりと痙攣する。
 目の前で起こっているできごとだというのに、エオルゼにはまるで遠い世界のことのようだった。何が起こっているのかわからなかった。ただ、壇上の中心で、腕を組んで周章するスペイギールをぼんやりと見つめる。くちびるは血の気がひいて紫色をしているのに、頬や首が紅潮している。
 順に回ってきた書簡には、たしかにヘリオスとの講和を望む文章が綴られていて、ダライアス総大司教とジャン=ジャック国王の署名が連名でなされていた。ぐしゃぐしゃにしわの寄った羊皮紙に呆然と視線を落とすエオルゼの鼓膜を、バルナベの尖った声が打つ。

「我々は三十年余りに渡り、聖都アストルクスと血統の正統性をめぐって争ってきました。世代をまたぐ内戦により国は疲弊し、人心は乱れ、猊下や陛下の求心力も衰えはじめております。その一方で、長びく戦乱にヘリオス家の血ももはや途絶寸前。これ以上骨肉相食む争いを続けて、何の益が生まれましょうや。今こそ忌まわしき宿怨を捨て、互いに手を取りあう時期ではございませんか」

 高圧的でありながら甘い蜜のような言葉が滔々と紡がれる。バルナベに正対するスペイギールの頬はますます上気していく。それがあまりにも危うくて、エオルゼの心臓がひやりと冷えた。
 落ち着け――とおのれを鎮める。周りが狼狽えれば、スペイギールの足元が崩れてしまう。

「よもや、血で血を洗う争いをくり広げてきた仇敵からの突然の和議の申し出に、易々と同意するわけがあるまい。ましてや、情勢はそちらに優位であるのだからなおさらのこと。何か条件があるのでは?」

 そう、条件。こんなうまい話があるわけない。侯爵の棘を含んだ声に、停滞していたエオルゼの思考も徐々に回り出す。
 バルナベは萎びたくちびるをにぃっと吊りあげて、老いた顔に笑みを浮かべてみせた。どうやら愛想よくしているつもりらしいが、何か裏を含んでいるようにしか見えなかった。

「悪い話ではございません。ただ、スペイギール様がダライアス猊下の地位を認め、今後猊下を脅かすような行動はいっさい慎むと、主に誓ってくださればいいのです」
「それだけではないだろう。オヴォラ殿、気取らず申されよ」

 めずらしく、ラズウェーンがスペイギールの前に進み出た。彼が最前に立ち、威圧的な低音で話すだけで、場の勢いはこちらへ傾ぐ。

「さすがレノックス殿。アストルクスをもっともよく知る御方ですな。お目にかかることができ、まこと光栄でございます」
「ダライアスの右腕とも言われるオヴォラ殿が、私ごときに頭を下げる必要はなかろう。奴は何を望んでいる」
「それは、レノックス殿もご存じのはずです」

 始めにバルクが動いた。彼はラズウェーンに庇われたスペイギールの隣に立ち、昂然とバルナベを見下ろした。それにダシュナが続き、エオルゼもスペイギールのそばに並ぶ。
 ラズウェーンがわざわざバルナベに正面から対峙するのも、背後にスペイギールを庇うのも、狡猾な使者から主君を守るためだ。ましてや、この提案がスペイギールの望んでいたものならば。
 バルナベはおのれを睥睨する四晶家に動じることなく、気味の悪い笑顔のままで告げた。

「ヘリオスがアストルクスから持ち去った墓所の鍵を、猊下にお返しいただきたいのでございます。さすれば猊下も国王陛下も、皆様のお命を奪うことはなさいません。しかしながら、スペイギール様はル・マヌンには居を構えづらいでしょうから、いずこか遠い地に移られるのがよろしいでしょう。四晶家の方々はアストルクスで猊下をお支えくだされば、罪に問うことはいたしません。カールステット侯も、ル・マヌンへ忠誠を誓われれば不問に処すと仰せです。いかがでしょうか」

 墓所の鍵。スペイギールの国外追放。四晶家はエウル=ヘリオスに膝を折り、侯爵は国王に平伏す。そうするだけでいいと、バルナベは甘く囁く。急遽代理として立ったラズウェーンに語りかけるふりをして、実際には陰に隠れたスペイギールへ。総大司教の腹心である男の目は、書簡を受け取った直後の少年の興奮を見逃さない。
 やはり、何者かが王宮に通じたのは疑いようがなかった。参事会室でスペイギールを難詰した者か、あるいは知らせを聞いてひそかに離反した者か。
 断言できるのは、その人物は当主になって以来沈黙を貫いてきたスペイギールが和平を望んでいると、国王や総大司教に密告した。そしてそれに敵は乗じた。
 ただ、ひとつ想定外だったのは、ル・マヌンから和議を提案してきたことだ。誰もが――エオルゼさえも――都は一笑に付すと考えていた。むしろスペイギールに交戦の意志がないのを衝いて、春まで待たずに急襲をしかけてくるのではないかと怖れていたのだ。
 なのに、まさかむこうから和平を望んでくるとは。

「つまり、墓所の鍵と四晶家をエウルに引き渡せば、スペイギール様や侯爵の命を取ることはしない、と?」

 ラズウェーンの問いに、バルナベは満足そうに首肯した。

「端的に言えば。侯爵の処遇については宮廷の意向にも寄りますが、陛下は侯の身の安全は保障すると仰せです。今後もこの地を治めることは難しくとも、一諸侯としての立場は守られるでしょう」
「スペイギール様にはお一人で国を出ろと?」
「今まで主の子孫として暮らしてきたスペイギール様にとって、平民として暮らすにはル・マヌンはいささか居心地が悪いでしょう。北か東か……南に出て海を渡るのもよろしいかもしれません。温暖で人も少ない地の方が余計な雑事に惑わされず、残りの長い人生も心穏やかに過ごせるのではないでしょうか」

 カッと頭に血がのぼる。あまりにも残酷な言いように、エオルゼの腸が煮えかえりそうだった。スペイギールとアルトゥール、たった二人で放り出してどうしろと言うのだ。
 だが、怒りに燃えるかたわらで、凪いだ心が頭を振る。
 仇敵であり、総大将でもあるスペイギールの首を落とさないというのは、かなり寛大な提案だ。あきらかに状況は劣勢であり、本来ならスペイギールの首を差し出した上での協議となっても文句は言えまい。余生と言われようと、たった二人での放浪を強いられようと、アストルクスに首を晒すよりはずっといい。
 スペイギールの様子をうかがうと、さっきまでの危うげな純粋さはすでに失せ、白い横顔からは熱を引かせていた。目の前に吊された餌にむやみやたらと飛びつくほど盲目ではなかったようだ。
 スペイギールは立ち塞がるラズウェーンと二言三言交わしてから、一歩前に出た。

「話はわかった。けれど、すぐに返事はできない。侯爵やエングラー大司教と相談する時間がほしい」

 バルナベは目を細めてうなずいた。

「もちろんでございます。ですが、いつまでもクレンマー伯爵の世話になるわけにはまいりません。卿のためにも期日を設けていただけないでしょうか?」
「大司教がここまで来るのに数日かかる。七日ほしい。八日後に返事する」
「承知いたしました。では八日後に。色好いご返答をお待ちしております」

 アストルクスからの使者は形式的に頭を垂れると、二頭立ての馬車に乗りこんでクレンマー伯爵領へ引きあげていった。

「すぐにゲルツハルトへ早馬を出してくれ」

 スペイギールの指示に、すぐさま侯爵の祐筆が飛んでくる。
 ガレン城砦から修道院までは片道で二日。エングラー大司教が到着し、全員で膝を突き合わすことができるのは三日間しかない。
 夕刻にはスペイギールとカールステット侯爵の署名がなされた親書が用意された。託された使者は、ゲルツハルト修道院を目指して北東へと駆けていった。