第二章 君の光 3

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「ありがとう。助かったわ」

 チッ、と舌を打つ音がした。エオルゼを見下ろす顔が忌々しげに歪んでいた。

「しつこいな、あいつ。はっきり言ったんだろう?」
「ええ、何度も言ったわ。伯爵からの正式な申し入れがないのなら、婚約は白紙だって」

 四年ほど前に、エオルゼはオーヘンから求婚されていた。当時は父親が戦死してまもなく、セインも幼かったため、中継ぎであるエオルゼには自分の結婚など考えられなかった。
 だが、いつかは弟に家督を譲り、ふさわしい家柄の男のもとへ嫁ぐのがエルー家の娘として生まれた自分の役目だと、少女のころから納得している。特にヘリオス家周辺の情勢が逼迫している今、エオルゼは主家にとっても有益な縁を結ばなければならない。
 そんな中、カールステット侯爵と所領を接するイエフ伯爵家は、またとない良縁だった。財政も豊かで、資金繰りに困窮するヘリオスには心強く、またオーヘン自身もエオルゼと歳が近い。多少気障なふるまいが目につくものの、見目がよく、しかもセインが成人するまで待つと約束してくれたのだ。
 高貴な女性は、だいたい十代のうちに嫁いでいく。二十歳を過ぎた女を同年代の男が娶ってくれるなど、奇跡のような話だ。
 だからエオルゼも承諾したし、一度は彼を生涯の伴侶と心に決めて、慎重に話を進めた。
 後見人としてラズウェーンはヘリオスへの全面的支援を条件に上げ、改めてイエフ伯爵から縁談の申し入れがあれば求婚を受ける、と返答した。オーヘンは快諾して所領へ戻っていったが、肝心の伯爵からは、使者どころか手紙の一通も届かない。つまり、イエフ家はエオルゼを娶るつもりも、ヘリオスに靡く気もさらさらないのだ。
 当然縁談は破談となった――はずなのだが、オーヘンはいまだ諦めずにエオルゼに接触してくる。再三、この話は白紙だと断っても、彼には通じない。
 いくら見惚れるような美丈夫でも、四年もつきまとわれれば気分は沈んだ。

(アストルクスへ行けばさぞ持てはやされるでしょうに……。なんでわたしに執着するのかしら)

 ため息を吐き、エオルゼは腕をさすった。夏でも雨夜となれば肌寒かった。
 悄然とするエオルゼの頭を、ぽん、とダシュナの手が軽く叩く。彼は髪が乱れるのも気にせず、まるで子犬をあやすように無造作に髪を撫でた。整えた髪をぐしゃぐしゃにされてエオルゼはむっとする。

「おまえの人生だってことを忘れるな。おまえはエルーの娘だが、ヘリオスにすべてを捧げる必要はない」

 感情の凪いだ声だった。いたずらな手を払おうとしていたエオルゼの腕が止まり、榛色の双眸がダシュナを見上げた。

「……無理だわ。わたしはエルーの娘だもの。セインのためにもヘリオスに尽くさないと」

 ダシュナが剣を振るうのと同じように、エオルゼも婚姻という手段でヘリオスを守らなければならない。それがおのれの役目であり、家族やスペイギールのためでもある。

「お父さんがよく言っていたの。おまえはこの世でもっとも大きいダイアモンドと同じぐらいの価値があるんだって。その価値を自覚して、どの選択が自分たちに最良なのか、相手を見極めて託しなさいって」

 それほど、自分に流れる血は重い。視野を広く持ち、耳を澄ませて、冷静かつ慎重に行動しなければならない。
 身を引き締めれば引き締めるほど、なぜかエオルゼの胸はひりひりとした。あちこちに跳ねた前髪を指先で梳かしながら、灼けるような痛みを飲みこむ。

「……エオルゼ」

 苦々しい表情のダシュナに気づいて、エオルゼは微苦笑を浮かべた。

「それにわたし、あの人苦手なの。だからいいのよ」

 ふ、とダシュナの緊張がほぐれた。下ろされた手がさっきより激しくエオルゼの髪を掻きまわす。
「やめてよ」と骨太な手首を掴むと、ダシュナは白い歯を見せて笑った。

「好みじゃないならいい。部屋に戻るぞ」

 彼はエオルゼの手をいとも簡単に振りはらうと、さっさと回廊を歩き出した。
 ため息とともに肩を落とし、エオルゼも自室のある館へ向かう。ただでさえ湿気でふくらんでいるのをここまで乱されたら、手櫛で直すのは無理だ。寝る前にていねいに櫛を通しておこう。
 二十五にもなって子犬のように扱われるのは癪ではあったが、ダシュナの気づかいは素直にありがたい。年上の彼やバルクやラズウェーンは、エオルゼが父親に連れられて修道院に来て以来、実の家族のように大切にしてくれる。女のエオルゼには何よりも心強い味方だ。
 雨に濡れた灰色の館の中は、人の気配が詰めこまれていた。けれども昼間の騒々しさはなりを潜め、しっとりと夜闇に溶けこんでいた。
 ようやく一日の職務から解放された家臣たちは、各自自由に夜を更かしている。遅い夜食を摂る者、夏至祭の残りのぶどう酒を嗜む者、相部屋の仲間と盤上遊戯に興じる者。気配がしても声が落とされているのは、上階で休むスペイギールの邪魔にならないように節度を守っているからだ。
 自室の扉の前には布をかけた柳の籠が置いてあった。拾いあげ、ダシュナに就寝のあいさつを返して、エオルゼの長い一日もようやく終わりを告げた。
 手燭から燭台に灯りを移すと、装飾に乏しい殺風景な部屋がぼうと浮かびあがる。寝台に書き物机、衣装箱のほかは女性らしいものはほとんどなく、花さえ飾られていない。それでも、野営での雑魚寝と比べれば、安心してくつろげる貴重な空間だ。
 籠の中には、ぶどう酒の瓶とはちみつ漬けの木の実が入っていた。厨房の誰かが用意してくれたのだろう。明日礼を言わなければ。
 舌にねっとりと絡みつくはちみつの甘さは連日の疲労をほどよく癒やしてくれたし、ぶどう酒は冷えた身体の芯にぽっと火を入れてくれた。就寝前の空腹をまぎらわせるのにもちょうどいい量だ。
 ダシュナに乱された髪をしっかりと梳り、顔と足を洗い、膝下まである白い寝間着に着替える。最後に蝋燭の火を吹き消して、エオルゼはようよう寝台に潜りこむ。
 身体は泥のような疲労に苦しんでいるはずなのに、目は冴え冴えとしていた。無理やりまぶたをおろしても、睡魔が訪れる気配はない。
 暗闇に覆われた脳裏に浮かぶのは、意気消沈するスペイギールの背中だった。結局、散会してから声をかけられなかったのが心残りだ。

(きちんと眠れているかしら……)

 食欲が落ちているのは、寝不足もあるのではないだろうか。エオルゼ以上に神経が昂ぶっているスペイギールが、うまく睡眠を取れているだろうか。
 戦いたくない、死なせたくない、静かに平和に暮らしたい、そこでエオルゼと暮らしたい――。
 ひそやかに、熱っぽく語った彼の夢。あの決意が、スペイギールを突き動かしている。
 何度も寝返りをうってみたが、眠気は気配さえも匂わせなかった。エオルゼは重い身体を起こして寝台から抜け出した。裸足に板張りの床はひやりと冷たく、ふるりと寒気に震えたが、かまわずに書き物机へ向かう。
 抽斗には櫛や手鏡、星護符のほかに、端布で作った小さな袋があった。
 絞った紐をそっと緩める。袋の底には、大粒のサファイアを戴いた金の指輪が、ひっそりと眠っていた。
 月を崇め、みずからを星々にたとえる女神シェリカの信徒にとって、夜空の一部を閉じこめたようなサファイアの色は神代から珍重されてきたものだ。その流れで、ヘリオス家の結婚指輪も代々サファイアだと言う。エオルゼの手のひらで深い青色を湛えるこの宝石も、スペイギールの母親が嫁ぐ際に贈られた物だ。

「浅はかだわ……」

 一財産にはなるだろう指輪を、母親の形見を、たやすく他人に託すなんて。スペイギールはこの指輪の本当の価値に気づいているのだろうか。
 そっと指輪の輪郭をなぞる。親指の爪より大きな青玉は、まっすぐにエオルゼを見つめかえした。「わかっている」と、スペイギールの瞳の色で。

(……誰にも気づかれていないと思っていたのに)

 弟のかわりに家を継げと父親から命じられ、剣を取る決意をしたあの日。娘らしく三つ編みにした髪をばっさりと切り落とし、誰にも悟られないように布団の中で嗚咽を堪えたのを、まさかスペイギールに気づかれていたとは。
 そして最近は戦場へ出ることもなく、髪の手入れをする余裕があるので伸ばしていたことにも、スペイギールは気づいていた。
 思い返せば、昔から些細なことにもよく気がつく、聡い子どもだった。いつもエオルゼのうしろをちょこちょことついて回りながら、幼いなりに周囲を観察していたのかもしれない。

(まるでひよこみたいで、かわいかったな)

 小さなスペイギールをひさしぶりに思い出して、エオルゼのくちびるがほころぶ。会わないうちにあんなに背が伸びて、今は見上げるばかりだ。
 エルー家に預けられたばかりのころのスペイギールは、慣れない環境と心細さから泣いてばかりいた。まだ三歳で、事情もわからないまま家族から引き離されて、どれほど寂しかっただろう。けれども幼子特有の柔軟さか、次第にエルーの家族や村人にうちとけていった。
 同い年のセインの存在も大きかった。彼はスペイギールのよい遊び相手だったし、一番の友人だった。
 森での遊び方を村人から覚えた二人を探しに行くのは、いつもエオルゼの役目だ。
「お腹がすいた」とひな鳥のようにピイピイ鳴く子どもたちの手を引いて、夕暮れの森を歩いた日々。子犬のようにじゃれあいながら駆けまわる二人を、母とともに世話する毎日。
 育った村での記憶は、どれを掬ってみてもきらきらと輝いている。そのまばゆさに当てられるたび、エオルゼの心臓はぎゅうっと鷲づかみにされる。
 あの平穏な日々は、大人たちが作ったゆりかごだ。自分たちは幼さゆえに、彼らによって目隠しをされていたにすぎない。
 そしてその平穏を守るために、成長したエオルゼは父から剣を渡されたのだ。

(そうだ……。あの日もギール様は泣いていた)

 ごめん、と。
 村を出るエオルゼに、スペイギールは目を真っ赤にして謝った。涙をこぼさないように必死にこらえる小さな身体の小さな震えに、この子は全部わかっているのだとエオルゼは悟った。
 そしてきっと、今もエオルゼの機微をひとつも漏らさずに見破っているのだ。無邪気でまっすぐで力強く、サファイアのように澄んだあの双眸で。
 指輪は手のひらの熱ですっかり温まっていた。エオルゼは指輪を袋に戻し、抽斗へしまうと、改めて寝台へ潜りこんだ。
 思ったより身体が冷えていた。裸足のつま先が氷のようだ。布団を引きよせて、身体を温めようと縮こまる。
 村を出てからの記憶は鮮明でありながら黒くくすんでいる。水晶の欠片のような村の思い出にくらべて、喉を絞められているような息苦しさがある。
 実際、エオルゼの喉には常に死の気配がまとわりついているのだろう。それが自分を縊り殺すまで、がむしゃらにアストルクスを目指す。エオルゼに与えられた唯一の未来だ。
 ここではそれが正義だし、それ以外の道はない。死は誉れでこそあれ、怖れるものではない。
 成長したスペイギールを見ても、再会の喜びは湧かなかった。彼の家族の死と立ち会ってきたエオルゼには、ついにこの子の番がやってきてしまった、と深い諦観しかなかったのだ。
 ところが、スペイギールはエオルゼの予想していた未来とはちがう道を歩き出そうとしている。彼の父や兄には選べなかった道を。
 ひそやかに夢を語ったスペイギールの声が鼓膜に蘇る。熱心な響きは、息苦しさに喘いでいたエオルゼの呼吸を楽にしてくれる。
 胸に抱いた手に力をこめる。ふ、と息を吐き、くちびるに白い前歯を立てる。
 おのれにまとわりつく死を、少年の言葉が遠ざけてくれる気がした。