第二章 君の光 1

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 ぽつ、と書き物机に落ちた染みに、エオルゼは俯けていた顔をもたげた。仰いだ空には黒雲が垂れこめていて、息が詰まりそうだった。
 開け放った窓から湿った風が吹き荒び、陽射しにほてった頬の熱を奪っていく。ひさしぶりの慈雨だ。暑熱に乾いた大地を少しでも潤してくれるといい。
 エオルゼはかじっていた黒パンの咀嚼を終えると、ガラス窓を閉めた。いくらも経たないうちに、さぁっと雨脚が強まる。
 スペイギールがアストルクスを諦めると――総大司教位の放棄を四晶家ししょうけの前で宣言してから、すでに二十日。
 年若い主君の決意にエオルゼ以外の当主は驚いていたが、スペイギールの意思が固いことを知ると、誰も反対しなかった。
 もともと、四晶家はヘリオス家の意向に黙して従う方針だ。長い歴史の中でもっとも重きを置かれるのは、名声ではなく家の存続――血統の維持である。女神シェリカと始祖イシュメルの築いた聖都も、総大司教として信徒を導く役目も、何者にも代えがたいものではあるものの、今は絶えようとしている血を守るのを優先すべきだと判断したのだ。
 翌日には、カールステット侯爵とエングラー大司教の両者との話しあいの席が設けられた。
 当然、二人は納得しなかった。彼らが長い間ヘリオス家を匿ってくれたのは、『アストルクスへの帰還』が共通の目的として存在していたからだ。一国の王に刃向かうのも、ヘリオス家の正統性を信じているからであって、旗印となるヘリオス家当主がみずから理念を退けては、彼らの立場も危うくなってしまう。
 それでも侯爵と大司教は、幾日にもおよぶスペイギールの説得に、耳を貸してくれるようにはなった。そして、話は夏至祭に参加していた支援者へも伝えられ、少年が起こした激震は瞬く間に修道院の内外へ伝播していった。
 以来、スペイギールの元には山のように抗議の書簡が届いている。みずからゲルツハルトまで駆けつけてくる者も跡を絶たない。個々に対処している余裕はないので、集まった者から参事会室で説明の場を設けてはいるが、賛同者はまだ一人も現れていない。
 パンだけのわびしい昼食を終えたエオルゼは、今一度身形を整えると、窓を打つ雨音を背に自室を後にした。
 階下では、普段は忠実で真面目な家臣たちが、顔に疲労をにじませながら動き回っていた。階段を下りきった瞬間には、エオルゼの姿を見つけた者が早足で向かってくる。

「エオルゼ様、商人のクロムが、スペイギール様にご拝謁願いたいと……」
「クリフ・クロムね。参事会室でお待ちいただいて」
「はい、その通りにしております。ですが、参事会の場ではなく、個人的にお話ししたいと申しておりまして」
「スペイギール様はお忙しい身だから無理だ、と返しておきなさい。あまりにもごねるようだったら、また教えて。けっしてここに近づけないように」
「心得ました」

 男は安堵の息を吐くと、参事会室の方向へ踵を返した。彼の背中を見送る間もなく、次の家臣が指示を仰ぎに飛んでくる。困った客人の対応に悲鳴をあげているのは一人や二人ではない。目的地に辿りつくまで、エオルゼは六人もの家臣を捌かなければならなかった。
 ようやく着いた厨房には、昼食の後片付けを済ませて遅めの食事を摂る者がぽつぽつと残っていた。食事時となれば戦場のような場所だが、大仕事を終えた彼らは夕食前のささやかな休息に浸っている。
 エオルゼは彼らに声をかけてから、調理台に手巾を広げた。雑穀を混ぜた黒パンと作り置きの焼き菓子、木の実や干し果物など、簡単につまめるものを一人分ずつ分けていく。
 麦酒エールを飲んでいた男が、炙った燻製肉とチーズを用意してくれた。最近、毎日頼んでいるからか、きちんと人数分そろっている。

「スペイギール様は昼食を召しあがった?」
「はい。少し残されましたが。エオルゼ様は……」
「わたしは大丈夫。部屋で済ませたわ」
「お忙しくて充分にお食事の時間を取れないのはわかりますが、毎食必ず召しあがってください。申しつけてくだされば、参事会室まで運びます」
「わかったわ。ありがとう」

 燻製肉とチーズをパンのあいだに挟む。それから、一人分だけくるみと焼き菓子を増やすと、それらをていねいに包み、籠に収めて厨房を出た。
 参事会室は押しかけてきた支援者ですでにあふれかえっていた。中央に置かれた長机を囲みながら、彼らは近くの者と喧々諤々の口論を交わしている。興奮した人々のいきれと昼食の麦酒の酒精で、室内はむっとしていた。熱気に眉をひそめながら上座を見やると、椅子はまだ空いていて、寂しげに主が現れるのを待っていた。

「姉さん」

 細く開けた扉の近くにいたセインに気づき、エオルゼは回廊へ招き出した。上座に近い扉はヘリオス家や四晶家、あるいは侯爵や大司教しか出入りを許されていないので、姉弟が立ち話をしていても見咎められることはない。
 エオルゼは腕に下げた籠から包みを二つ取り出し、セインに手渡した。

「これ、あなたとイグナーツの分の夜食よ。時間を見つけて食べなさい」

 セインは礼を言うと、さっそく肉とチーズを挟んだパンにかぶりついた。「夜食だって言ったでしょ」とエオルゼが苦く笑う。

「だって、これでもけっこう気を張ってるから、腹が減るんだよ」
「夜も抜けられたら厨房へ行って食べるといいわ」
「そうできるといいけどね。むしろ夕食までに終わってほしいけど」

 セインはパンをぺろりと平らげた。物足りないのか、焼き菓子も頬ばっている。
 最近はきちんと食事の時間が取れていない。捌かなければならない客人の数や要求が、ヘリオス家の処理能力を超えているからだ。
 侯爵や大司教から人手を借りているとはいえ、充分な人員が確保できているわけでもない。忙しなく動き回る日々で、自然と食事と睡眠の時間が削られていく。

「ギール様は?」
「ラズウェーン様が迎えに――ああ、ほら」

 振りかえると、雨に淡く煙る回廊の角を、男たちに囲まれた少年が曲がったところだった。
 盛装をまとい、胸からヘリオス家当主の星護符を提げた姿は凛々しく、精悍な大人たちの中でも見劣りはしなかった。けれども、あどけなさの残る面には疲労と緊張が隠せない。くちびるはきつく結ばれて、スペイギールの固い決意と気骨に色を失っている。
 籠を抱えたまま、エオルゼは一行の前に歩み出た。侯爵と大司教に目礼を送ってから、先頭に立つラズウェーンに声をかける。

「少しよろしいですか、ラズウェーン様」
「どうした」
「スペイギール様がお食事をあまり召しあがっていないと聞いたので」

 足を止めたスペイギールに近寄る。視線を上げると、強ばっていたスペイギールの顔からふっと緊張がとけた。エオルゼはくるみと焼き菓子を増やした包みを開き、宥めるように言った。

「少しでいいので、何か食べてください。夜まで持ちませんよ」
「……うん」

 立ち食いはあまり褒められた行為ではないが、今は目を瞑るしかない。
 スペイギールは焼き菓子をひと切れ取ると、パクリとかぶりついた。無言でうながすと、もうひとつ口に放りこむ。思ったより食欲はあるらしい。

「お腹がすいたらいつでも言ってください」
「わかった。ありがとう、エオルゼ」

 うれしそうな笑顔に、エオルゼも胸を撫でおろす。ふたたびラズウェーンたちに頭を下げてから、一行の最後尾に加わった。
 夏至祭以来、スペイギールの神経は異常に昂ぶっている。そのせいか、以前のように感心するほどの食欲を発揮していない。
 参事会室へ入ると、丁々発止だった支援者たちは一様に口を噤んだ。不気味な沈黙の中、針を含んだ目がスペイギールを観察する。エオルゼも、そして彼女たちに守られるように立つ少年も、自分たちにまとわりつく悪意に気づいていたが、誰ひとりとして面には出さなかった。
 上座の空席に、カールステット侯爵とエングラー大司教、スペイギールが着席した。四晶家や従者は部屋の隅へと下がった。

「それでは、さきほど中断した議題からですが――」

 進行を務める侯爵が評議の再開を告げる。午前中に話を中断させられた小領主は、休憩中の鬱憤を晴らすように熱弁を始めた。

「さきほど、スペイギール様は我ら連合軍が国王軍に劣るとおっしゃいました。たしかに数の上では劣りましょうが、我々の兵はラスミアシェリカのために命を擲つ覚悟を持ったつわものぞろい。一方、国王の兵は金に目の眩んだ卑しい傭兵ども。士気は我らの方が高く、志は崇高です。現に我らは攻め入る敵軍を幾度と追い払い、勝利を収めています」

 スペイギールはすう、と息を肺に満たすと、小領主とは対照的な声音で応じた。

「ヘリオスを支えてくれるあなたたちの兵が国王軍より優れているのも、忠実な女神の僕であることも、よくわかった。けれど、その誇り高いつわものでそろえられた軍は、約四倍の軍勢を抱える国王軍以上の兵力を常時発揮できるだろうか」
「それは、可能でしょう」
「一人で四人以上の働きをしろ、という意味だ。少なくとも、おれは四人に囲まれたら太刀打ちできない」
「スペイギール様が戦場で敵に囲まれることは、万が一にもございません。ご心配召される必要はありませんよ」
「自分の身の安全を危ぶんでいるんじゃない。四人以上の働きをするということは、少なくとも四人倒さなければならないということだろう」
「単純に申せば、そうでしょう。ですが、戦と言うのは数だけがすべてではないのです。そこに知略や策謀を加味することで、初めて戦の勝敗が決まります。……まあ、戦場に立ったことのないスペイギール様はご存じないでしょうが」

 ふ、と小領主は小鼻を膨らませて笑う。

「……たしかに、おれはまだ実戦に出たことはない。あなたの言うとおりかもしれない」
「おかわりいただけたのなら結構です」

 したり顔の男の耳に、「しかし」とスペイギールの声が鋭く刺さる。

「ヘリオスが窮地に立たされているのも、また事実だ。優秀な兵に守られていても、父や兄は命を落とさなければならなかった。彼らだけじゃない、もっと多くの人が戦場に倒れたはずだ。それほど国王軍は強敵だ。
 そして王国の軍費は我々と比べものにならないほど巨額で、尽きるところを知らない。つまりいくらでも失った兵力を補うことができるが、こちらの兵力はすり減っていく一方。今は四倍でも、やがて五倍、六倍と、差は広がっていく。その差を、長丁場に疲弊した兵士で埋められるだろうか。おれは難しいと思う」

 小領主は苛立たしげに机を指でこづいた。

「王国の軍事費は、国民の血税です。けっして資金源は潤沢ではありません。近いうちに、必ずや王国の首は回らなくなります」
「おれは、枢密院と話がついて、開戦の準備をしていると聞いた。それは資金繰りの目処がついたからでは?」
「一時的にはついたのでしょう。ですが、長期となると困難です。ル・マヌンの国民は王の虐政に悲鳴をあげ、怨恨を募らせている。哀れな民を救ってやれるのは、ヘリオスの血を継ぐスペイギール様しかいらっしゃいません。おわかりですか?」

 カツン、とひときわ強く指を打つと、男は身を乗り出して問う。

「民はヘリオスに救いを求めているのです。だというのに、よもや主の御子であるあなた様が怖じ気づいて、哀れな信徒を見捨てるのですか?」
(哀れな信徒――ね。いったい誰のことかしら)

 エオルゼは足元に視線を落とし、胸裏で毒づいた。壁際に立つエオルゼからはスペイギールの背中しか見えないが、きっと渋面を作っているにちがいなかった。
 スペイギールはよくやっている。多少まごつくことはあるが、明瞭な受け答えにすっと背筋を伸ばした昂然な姿勢は、若輩と侮っている者にはいい牽制になるだろう。一年前に比べたら目まぐるしい成長だ。
 それでも、のらりくらりと論をかわしては追及を重ねる老獪な小領主と対峙するには、やはり経験がたりない。
 初老の小領主は、ここぞとばかりにおのれの功績を連ね、いかにヘリオスのために働いてきたかを語ることに熱中していた。朗々と響く声は、ときに苛烈にスペイギールの不義を責める。
 父祖から継承してきた聖都を捨てる放縦さに、女神への不信心。信徒に対する無情。年少ゆえの無知。次第に小領主に賛同する者が加わり、参事会室は糾弾に熱をあげる。そうすると、少年の背中は石のように固まり、くちびるもきつく結ばれてしまう。
 糾弾者たちの本心はただひとつ。今までの恩を仇で返すのか――だ。
 彼らとて、おのれの命運をヘリオスへ預けた者たちだ。スペイギールがみずから国王に膝を折っては、立つ瀬がない。

(……だとしても)

 エオルゼはこぼれた前髪の陰から、誇らしげな小領主を盗み見た。恩着せがましく演説を続ける彼が、実際にヘリオスやゲルツハルト修道院に喜捨をしたことはない。戦時でも派兵の数を何かと理由をつけて減らしてくるし、滞在中の食事に文句をつけているのも、エオルゼは知っている。彼とともにスペイギールを批難する司教も、おのれの信心深さを聖典の一節を引いて披露しているが、聖職者なら必修である古典語の文法を間違えているので説得力など欠片もない。
 その向かい側に座る男はもともと国王派で、王とそりが合わずに宮廷を追い出されたとの噂があるし、さきほどスペイギールへの面会を願い出ていた商人は、やってくるたびに塩や薬草をくすねていく。
 アストルクスから追い出された当時とは異なり、現在のヘリオス家の周囲は一枚岩ではない。敗退を重ねてきた今では、『援助』ではなく『搾取』に頭を使う者も多い。
 堅牢だった黄金の砦はすでに砂の城に成り果てて、常に神経を尖らせていなければ崩落してしまうほどに脆いのだ。