第一章 君の夢 8

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 玄関を入ると居間と台所になっていて、雨戸を開け放した窓からは白い陽射しが床へまっすぐと落ちていた。中央には暖炉を兼ねたかまどがあり、朱色の炎がちろちろと蛇の舌のように揺れている。奥の壁には水甕や調理台、鍋や食器を置いた棚が設けられ、煙で燻された梁からは縄で連ねた野菜やハーブや燻製肉がところ狭しとぶらさがっていた。
 スペイギールは父子とともに、言われるがままに昼食の準備に取りかかった。
 すでに支度は途中まで済んでいたらしく、かまどにしかけられた鍋の中ではつやつやとしたじゃがいもが真っ白な湯気を立てている。蒸かしたてのそれを木皿に盛って少々の塩をふり、朝の残りのスープと黒パン、りんご酒を食卓に並べたころには、ハンナの手当も終わっていた。
 寝室の椅子をひとつ拝借してきて、五人で食卓を囲む。女神に祈りを捧げ終わると、家の主人に勧められて、スペイギールはじゃがいもに手を伸ばした。

「熱っ! ……ん、うまい!」

 収穫したての芋はほっくりと蒸しあがっていて、口の中でほろほろと身が崩れていく。少し振った塩もじゃがいもの素朴な滋味によく合っていた。火傷しそうなのもかまわずに、二口三口とかぶりつく。

「うまいだろ? ほら、どんどん食え」

 ぺろりと一個を平らげたスペイギールに、ハンナの夫は歯を見せて笑った。悪いと思いつつも食欲には勝てず、スペイギールは礼を言って二個目のじゃがいもを取った。
 ひさしぶりに、おいしいと思える食事だった。修道院の食事の方がはるかに豪勢で量も多いのに、スペイギールには味がよくわからなかった。高位聖職者である大司教や大貴族の侯爵が口にするのだから、まずい料理ではないはずなのだが。
 小さな食卓を、家族で肩を寄せあって笑顔で囲む。在りし日のエルー家を彷彿とさせる光景は、スペイギールの腹の底を温めていく。
 じゃがいもを平らげて満足したあと、エンドウ豆のスープにパンを浸していると、隣に座った少女が身を乗り出してスペイギールの横顔をのぞきこんだ。

「ねえ、セインは侯爵様の兵士なんでしょ? スペイギール様には会った?」

 びくっ、と跳ねそうになった身体を、すんでのところで止める。あやうくパンを落とすところだった。

「スペイギール様ってどんな人? 髪と目は何色なの?」
「いや……、その……」
「背は高い? かっこいい?」

 動揺を嫌悪ととらえたのか。矢継ぎ早に質問する少女を、父親は鋭く叱責した。

「まったく、おまえはすぐそれだな。ヘリオスのご当主様に失礼だろ」
「だってぇ。気になるんだもん」

 十代前半の少女らしい傲慢な反応だったが、つんとくちびるを尖らせた表情には愛嬌があった。彼女はひょいと肩を軽く竦めただけで、スペイギールの腕をつついて返事を催促してくる。こら、と今度は少女の兄が見咎めると、リスのようにぷっくりと頬をふくらませた。

「減るもんじゃないでしょ? 教えてよぉ」

 たしかに減りはしない――が。
 食卓を見渡せば、少女を諫めはしたもののヘリオスの新しい当主に興味があると、皆の表情が語っていた。四人の視線がスペイギールの額や頬に食らいつき、じわじわといたぶってくる。
 スペイギールは苦労して黒パンを呑みこんでから、ようやく口を開いた。

「え、っと……、おれはその……会ったこと、ない、から」
「えぇーっ!? そうなの? がっかりぃ」
「お顔ぐらい見たことあるだろ? どんな感じだい?」
「ど、どんな感じって言われても……。……ふ、普通?」

 食いさがってきたハンナに気圧されながら応えたが、彼らの満足は得られなかった。椀の中でスプーンをぐるぐると回しながら、少女がおおげさに肩を落とす。

「普通って言われてもぉ。なぁんだ、セインって本当に下っ端なんだね」
「おい、こら」
「だって、アダール様たちはずっと修道院で暮らしてたでしょ? だからお顔も知ってたけど、スペイギール様は見たことないんだもん。あたしと歳も近いらしいし、気になってもしかたないじゃん」
「そうだねぇ。早いとこお顔ぐらいは拝みたいよねぇ」
「まあ……なぁ。アダール様は俺たち村人にもやさしかったからな」

 ハンナの夫は囓っていたパンの残りを口へ放りこみ、咀嚼をすませると、野良仕事で鍛えられた腕を胸の前で組んだ。

「アダール様は週に一度の礼拝では必ず声をかけてくださったし、祭のときには肉や菓子を配ってくださった。奥方のヘスティア様とも仲がよくてな……セインは知らんかもしれんが、お子様が生まれたばっかりだったんだ」

(アルトゥールのことか……)

 そっと顔を伏せ、パンを食べるふりをしながら、スペイギールは沈思した。
 三兄が残した唯一の血縁。その存在をラズウェーンから教えられたのも、村を出てからのことだ。
 二歳になる甥のアルトゥールは、アダール亡きあと母親のヘスティアとともにゲルツハルト修道院を離れ、辺鄙な村でひっそりと暮らしていると聞く。
 最後にアダールと会ったのは何年前だったか。顔を合わせることさえ少なくなっていた兄に、妻と子どもがいたと突然告げられても、親族の実感はなかなか抱けない。まるで違う世界に住む人々だ。
 ハンナによれば、兄たちは跡目を継いだときには必ず村人に顔を見せたという。それが通例になっていたので、スペイギールの訪問を待ちかねているのだ。
 彼らが口々に語るヘリオス家は、『太陽』の名のとおり、天上から人々をあまねく照らす慈悲深い存在だった。女神に認められた、女神の正統なる末裔であるヘリオスに、彼らは敬愛と欽仰きんぎょうを抱き、希望と救済を求める。
 早く内乱が終わるように、ヘリオスがアストルクスへ戻れるように。平和な生活が続くように、自分たちがもっと豊かで自由な生活を送れるように。
 将来を語る笑顔は春の日なたのように輝かしくて、スペイギールには直視できなかった。無言で豆のスープをすすり、残りのパンを胃へ流しこむ。
 ちょうど皿が空になったころ、窓の外から小鳥のさえずりとともにカランと鐘の音がした。
 物思いから我に返り、スペイギールはスプーンを置いて席を立った。鐘楼の時の鐘だ。いつのまにか、正午を一時間も回っていた。

「ごめん、戻らないと。ごちそうさまでした」
「あ、ちょいと待ちな!」
「じゃがいもおいしかった。ありがとう」

 ハンナの制止を背に、あわただしく家を飛び出して修道院を目指す。
 今ごろ、セインの怒髪は天を衝いているだろう。とっくみあいになれば負ける気はしないが、説教と愚痴に関しては今回はスペイギールに非があるので、ひたすら相手の気がすむまでつきあい、謝るしかない。
 しかも今はラズウェーンに侯爵、大司教までいるのだ。四人のしかめ面を想像しただけで頭が痛い。

「セイン、待って!」

 村を抜け、木立に入る寸前、少女の声がスペイギールに追いすがった。つい足を止めて振りかえると、ハンナの娘が紅色のスカートをひらめかせながらあとを追ってきていた。止まってしまったからには逃げるわけにもいかない。
 少女はスペイギールの目の前で立ち止まり、息を整えると、握りしめた拳をはい、と突きだした。

「これ、干しあんず。今年のあんずだから絶対おいしいから、偉い人に怒られそうになったらこれでご機嫌とって」

 目の粗い麻布の包みを開くと、夕焼け色の干しあんずが片手いっぱいに入っていた。
 詫びのつもりだろうか。返って気をつかわせてしまった気がして、申し訳なくなってくる。

「いいよ、気にしなくても。おれは怒られるのが役目だから」
「いいから持ってって、ね? それで、もしよかったら、また時間があるときに遊びにきてよ。しばらく母さんは動けないし、スペイギール様の話も聞きたいから」

 首を軽く傾げて、少女は上目づかいにスペイギールをのぞきこんだ。「ね?」と甘えるように念を押される。
 正直、いい気はしなかった。また長々と家族の偉業やスペイギールへの期待を語られても、苦痛なだけだ。それならまだ、家族の墓前でうたた寝をするというささやかな抵抗を続けた方がいい。

「……ごめん。来るのはもう無理かも」

 あんずの包みを少女に押し返すと、途端に少女はうなだれてしまった。まるで子犬のようだと思うかたわら、こうもあからさまに落胆されるとスペイギールも罪悪感を揺すぶられてしまう。

「そっか、お仕事があるもんね……。でもこれは持っていってよ。今日のお礼だから、ね」

 ふたたび渡された包みをもう一度返すのは気が引けた。根負けして礼を言うと、ようやく少女の顔に笑みが戻った。

「礼拝日は、あたしたちも修道院の教会堂にお参りするんだ。そのときに会えたらいいね。じゃあ、お仕事がんばってね!」

 少女が踵を返すとともに、ワンピースの裾がふわりとふくらむ。まっすぐに家へ駆けていくうしろ姿は、行きかう村人に紛れてすぐに見えなくなった。
 スペイギールも踵を返し、木立の小道をたどる。清かな小川を渡り、細道を行くと、荘厳な教会堂が緑の影からその尖端をのぞかせた。すでに村の殷賑いんしんは遠く、人の気配は希薄で、小鳥の羽ばたきや梢が揺れる音さえたやすく拾えそうだ。
 そのまま静寂の世界へ足を踏みいれようとしたが、おもむろに足を止め、幹の影に隠れた。握りしめていたこぶしを開けば、くしゃくしゃの麻布と干しあんずが顔を出す。
 少女に抱いた嫌悪感と拒絶は、清流に落としてしまったのか、もう心のどこにも残っていなかった。
 かわりにあるのは、ほっこりとしたじゃがいもを食べたときの腹のあたたかさ――懐かしさを覚えたあの食卓の温度だった。

(単純に、気に入ってもらえたのかも)

 あんずをひとつ、口に放りこんでみる。舌がとろけそうな甘さだった。
 残りをていねいに包みなおすと、スペイギールはつま先を自室に向けた。
 木立を抜けて小さな礼拝堂を通りすぎ、教会堂のステンドグラスの下を横切って、秋の陽に蜜色に深まる館を目指す。ガラス窓の並ぶ側面から入り口へ回りこむと、教会堂まで渡された回廊の円柱のそばに、見慣れた栗毛を発見した。

「ギール様! どこに行ってたんですか!!」

 やっぱり雷が落ちた。首を竦めながら、スペイギールはセインに駆け寄った。

「ずっと探してたんですよ!? 墓地にいないし、部屋にも中庭にも礼拝堂にもいないし、四晶家全員で探しまわってたんですからね!」
「ごめん、ちょっとその辺を探検してたんだ。鐘が聞こえてあわてて戻ってきた」
「探検、ってなんですか!? まったく、子どもじゃあるまいし。ラズウェーン様にみっちり叱られてくださいよ」
「わかった、ごめん。反省してる。ごめんってば」
「どうだか」
「本当にごめん。おれが悪かったから、これで機嫌直してくれよ」

 手のひらの包みを差し出すと、セインはふしぎそうに眉をひそめた。

「あんず? どうしたんですか、これ」
「厨房でもらった。おれは食べたから、はい。で、ラズウェーンはどこにいる?」
「多分食堂にいるはず……って、もらっていいんですか!?」

 走り出したスペイギールに大声で問う。館の扉の前でくるりと振りかえり、幼なじみを指差して、スペイギールは叫んだ。

「エオルゼにも分けろよ! たしか好きだったから」

 わかったな、と念を押してから、スペイギールは館へ飛びこんでいった。
 廊下を走る軽やかな足音が、開いた扉の隙間からもれてセインの耳まで届く。その余韻が秋風に流され、菩提樹の大きなため息が過ぎ去ったあと、ようやくセインは踵を返した。さっき別れたばかりのダシュナに報告するためだった。
 回廊を進みながら、押しつけられた包みを開いてみる。麻布はぐしゃぐしゃなものの、中のあんずは無事だ。
 ひとつつまみ食いをすると、ねっとりとした果実は蜜のように甘く、緊張と疲労に強ばっていた背中をほぐしてくれた。セイン自身が感じていた以上に、スペイギールの失踪は衝撃的だったらしい。

「……けど、よく覚えてるなぁ……」

 姉があんずを好んでいたのか、セインの記憶にはない。一緒に暮らしていたのは七年も前の話だ。けれども、言われてみればたしかに好きそうだなと思う。
 後始末が終わったら、エオルゼに渡そう。そうしたら、神経がひりひりとするようなあの表情も、少しはやわらぐかもしれない。
 セインは麻布を腰袋へ収めると、ダシュナが待つ広間へと向かった。