第一章 君の夢 5

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 秋空を求めるように高く伸びた木々の先に、こっくりとしたはちみつ色の尖塔が現れた。道なりに進むと、やがて尖塔と同じ色をした壁に行く手を阻まれる。あごを反らして見上げるほどの門は櫓を備えていて、それがゲルツハルト修道院の入り口だった。
 ザッヘン教会堂での襲撃を企てた犯人の手がかりは、ついぞ得られなかった。ただの強盗か、それとも国王やエウル=ヘリオスの兇手なのか。判断材料は出発までに見つからず、一部の兵が調査のために残ることになった。
 一行は万が一に備え、本来なら一日で着く行程を、遠回りをして三日の行程に変更した。
 到着を報せるために走った伝令によってすでに連絡は届いていて、門が見えたと同時に櫓の鐘が鳴らされる。からんからん、と乾いた音が青空にこだました。
 近づいてくる門を見据え、スペイギールは腹と眉間にぐっと力を入れた。村を発ってから十日、大勢の人間に出迎えられるだろうことはすでに学んでいた。
 門前に着くや否や、門扉は滑らかに開かれた。
 入るとすぐに石畳を敷いた広場があり、塔と背を競うほどの巨大な菩提樹が大きく枝を広げている。その木陰で、修道士と家臣をともなったふたりの男が、スペイギールを待っていた。

「ゲルツハルト修道院へようこそ、スペイギール様。お目にかかることができ、まこと幸甚にございます。私はサムエル・ハセリウス・ネズ=カールステット、このカールステット領を治めております。こちらはこの修道院の院長を務められている、グスタフ・エングラー大司教です」

 両腕を広げてスペイギールを歓迎したのは、長年ヘリオス家を支援しつづけてきた重鎮のふたりだった。
 きらびやかな金のボタンが並んだ深緑色の上衣を着た侯爵は、五十代中ごろだろうか。灰色の髪をうなじでひとつに品良くまとめている。一方の大司教は四十代後半で、聖職者の正装である白の長衣をまとい、胸元では金の星護符が鮮烈な存在感を示していた。

「……初めまして。スペイギール・ヘリオスです」

 道中悩んでいたものの、狭い村社会で育ったスペイギールにはそれ以上のあいさつが思いつかない。
 少年のつたない名乗りに侯爵と大司教の機嫌が損なうことはなく、フードの下から現れたスペイギールの顔を見て、二人はうれしそうに目尻にしわを刻んだ。

「ギゼルベルト様に目元がよく似ていらっしゃいますね。ですが、眉や口元はお母様の面影がおありのようです」

 カールステット侯爵の言葉に、スペイギールは瞠目した。

「母さんを知って、る……んですか?」
「はい。実は、エルー家へ移られる前のスペイギール様にもお会いしたことがあるのですよ」

 驚いた。侯爵とかつて対面した記憶は、スペイギールの記憶の棚には残っていない。
 しかし、よく考えてみれば、彼はスペイギールが生まれるずっと前からヘリオス家を支えてきたのだ。幼い自分を知っていても、なんらおかしくはない。

「ですが、ご無事で安心いたしました。賊に襲われたとの報せを受けたときは、生きた空がいたしませんでした。お怪我はございませんでしたか?」
「あ……はい。ないです」
「それはようございました。長旅にお疲れでしょう。お部屋をご用意しておりますので、ご案内いたします」

 エングラー大司教が先頭に立ち、スペイギールたちを院内へと導いた。
 広場の正面はこっくりとした蜜色の教会堂に面していて、中心部からはさきほど梢の先に見た尖塔を空へ伸ばしていた。あおぐほどに巨大な建物ではあるものの、石材の色のせいか、威圧感はそれほどない。装飾性もないが、懐にすっと入りこんでくるような親しみやすさがある。
 一行は教会堂の左手へ進み、角を曲がった。

「少々遠回りですが、こちらの方が人目につきませんので。修道士らに見つかると身動きが取れなくなるでしょうからね」

 エングラー大司教の話によると、教会堂の向かって右側が修道士たちの共同部になっていて、その奥に、院長である大司教とスペイギールの住居がそれぞれあるらしい。二つの棟は教会堂や共同部、参事会室の置かれた広間と回廊で繋がっていて、日常の世話はヘリオスの家臣団はもちろん、修道士や隣接する村人が手伝ってくれるということだ。
 敷地を囲む壁を見上げながら奥へ進むと、教会堂の裏手に出た。緑が濃い芝生に、修道院と同じ蜜色の石灰岩がぽつぽつと並べられている。石版の大きさは大人ひと抱えほどで、陽光の下で目を細めると、うつくしく磨かれた表面に文字が刻まれているのが見えた。

「……あれは……」

 足を止めたスペイギールの隣に立ち、大司教が答える。

「墓碑でございます。……お立ち寄りになりますか?」

 彼は息を詰めたスペイギールの返事を待たずに、ひとつの碑の前へ案内した。秋晴に枯葉色の影を落とす文字が、スペイギールの双眸に深く突き刺さる。
 ああ――と重い嘆息が、くちびるのあいだからこぼれた。

「母さん」

 一歩、二歩と、スペイギールは足を引きずるように近づき、墓碑の前で膝から崩れ落ちた。
 無機質な石に刻まれた無機質な文字の羅列でしかないのに、それが母の名前だと認識した瞬間、甘いミルクのような香りが墓碑から匂い立った。
 頭を撫でてくれるやわらかな手のひら、飛びこめばいつでも抱きとめてくれる豊かな胸元。甘えたくて腰にしがみつくと、くすくすと笑う声とともに額にキスが降ってくる。

『甘えん坊さん、どうしたの?』

 頬をすり寄せた母の、とろけるようなぬくもり。彼女の髪は、いったい何色だったろうか。
 顔も、声も、もう覚えていない。けれどあふれる記憶は尽きない。
 滾々と湧きつづける思い出に動揺しながら隣を見れば、父の名前があった。その向こうには名前しか知らない祖父。反対側を振り返れば、三人の兄が一列に並んでいる。
 ざあっと木々がざわめき、背後から風が吹きつけた。スペイギールの荒れ狂う胸を、乾いた風が貫いていった。

「……本来ならば、アストルクスのジ=ジェルフ大聖堂にて、丁重に葬られるはずの方々です。このような場所に埋葬いたしましたことは、大変心苦しく思っております」

 エングラー大司教は口惜しげに言い、こぶしを握った。必ずやしかるべき墓所にと、跪くスペイギールを慰めるように言い添える。
 しかし悔恨も決意も、からっぽの胸には響かない。穿たれた穴からはすべてがこぼれ落ちて、吹き荒ぶ風が跡形もなく連れ去っていく。

「スペイギール様。お食事を用意しますので、お部屋へ移られては……」

 墓碑の前から動こうとしないスペイギールに、カールステット侯爵が声をかけた。肩越しに当惑しているのが伝わってくる。

「……食事はいい。ひとりにしてほしい」

 やっとのことで絞りだした声は、スペイギールでさえびっくりするほど擦れていた。

「ですが」
「ひとりになりたいんだ」

 ぴしゃり、と頬に叩きつけるように吐き捨てる。緊張が走ったのを背中が感じた。
 侯爵と大司教にとって、スペイギールの反応は予想外だったようだ。けれども、心の準備もなくいきなり墓前に連れてこられて、動揺するなと言う方がむちゃくちゃだ。気を遣って立ち去るよりも、新しく迎えたヘリオス家当主の安全を優先させようとする対応も、あまりにも無神経ではないだろうか。
 スペイギールは生い茂る芝生に爪を立てた。先日の雨で湿った地面はやわらかく、力を入れればぶちぶちと簡単に草が抜けた。爪のあいだに土と草の汁が入りこみ、むっとしたいきれが鼻につく。
 やり場のない感情を手のひらに握りしめて奥歯を噛むと、ギリ、と歯が鳴った。またぶちりと、指の先で草の根がちぎれた。

「わかりました。あちらの礼拝堂におりますので、ご用がすみましたらお越しください」

 ラズウェーンの抑揚に乏しい声が、今はふしぎと快かった。首肯すると、数人の足音が遠のいていく。
 間を置いて、侯爵と大司教の気配も薄れていき、やがて下草を踏む音が消えた。耳朶に残ったのはさざ波のような葉ずれと、木陰で休む鳥のさえずりだけだった。
 目を閉じ、のどかな空間に身を委ねる。育った森には及ばないものの、自然の営みがささくれ立った心をゆっくりと慰めてくれた。まぶたを下ろしたまま膝を抱え、今度はそうっと記憶の抽斗に手をかけてみる。どこからか大きな手が伸びてきて、スペイギールの頭を撫でてくれた。
 母の繊細な手とはちがい、固くてごつごつとした手のひら。少し乱暴だが、その大きな愛情に幼いスペイギールはなによりも安心した。
 家族の死はいつも誰かの口によって伝えられるもので、スペイギールがその死に立ち会ったことはなかった。三歳から離れて暮らしていた家族がこの世にいなくなっても、残酷なことに日常生活ががらりと変わることはなかったのだ――けれども。
 目の前に並んだ墓碑は、失った者の大きさをこれ見よがしに突きつける。はちみつ色の石は何も語らず、その下に眠る人の面影も残っていない。
 膝頭に額を押しつけたまま、片手で自分の頭を撫でてみた。短く切りそろえた髪に、指先に残っていた土がこびりつく。記憶の軌跡をなぞっても父のぬくもりが蘇るわけでもなく、孤独感が増しただけだった。
 ぐしゃりと髪をわしづかみにして、スペイギールはいっさいの動きを止めた。身体の内で渦巻く嵐はひどく狂暴で、通りすぎるのを身を固くして待つしかなかった。

 

 

 ――かあさん。おかあさぁん……。
 小さなスペイギールが肩を震わせながら泣きすさぶ。どんぐりのように円い目からはぼろぼろと涙がこぼれ、りんご色の頬をしとどに濡らす。
 いつもならすぐに母親が拭ってくれるのに、今はどこにもいない。寝室を、居間を、厨房や庭の四阿を探しても、見慣れたうしろ姿は見つからない。喉がひりひりと痛むまで呼んでも、ついにはへたりと座りこんでしまっても、スペイギールのもとに母親は現れない。
 耐えがたい絶望が幼い子どもを襲う。スペイギールは身体を丸めて自分を守ろうとした。あたたかく、何の苦しみも知らなかった、母親の胎内にいたときのように。

(……これは夢だ。ずっと昔の、エルーに預けられたばかりのときの)

 幼い自分と痛みが重なり、スペイギールは拳を握った。
 病気で臥していた母は、ある日とつぜん冷たくなってしまい、二度とスペイギールを抱きしめてくれなかった。
 何が起こったのか、スペイギールにはわからなかった。遊べないあいだの友だちだと作ってくれた人形を片手に、「おかあさんどうしたの?」と何度も腕を揺さぶった。

「母さんは、女神様のところへ行ってしまったんだよ」

 父がスペイギールを人形ごと抱きしめて、そっとささやいた。初めて見る父の表情に、幼いなりに母と離れなければならないのだと悟った。
 葬儀をすませると父はスペイギールを馬に乗せて、壁のように聳える雪山を背負った暗い森へ入っていった。
 着いたのは両手で掬えるような小さな村で、森のまんなかに質素な藁葺き屋根の家が十軒ほどと、村人を養う分だけの小さな畑が作られている。家畜小屋の前ではニワトリが我が物顔で闊歩し、中からはブタの鳴き声がかしましい。
 広々とした屋敷で暮らしていたスペイギールには、初めてのものばかりだった。人形を抱きしめて縮こまった彼を歓迎してくれたのも初めて見る人ばかりで、不安から父の広い背中にしがみつく。
 父の背は、スペイギールが腕をいっぱいに広げても収まらないぐらいに大きい。だからどんなものからも守ってくれる――と思っていたのに。

「今日からここで暮らすんだ、ギール」

 縋る末息子の頭を撫でながら、父は言った。

「おとうさんやおにいちゃんは……?」
「お父さんやお兄ちゃんたちは、大切な用事があるんだ。だからそれが終わるまで、ギールはここでいい子にしているんだよ」
「…………やだ。やだやだやだ! やだぁっ!!」

 捨てられるのだと思った。そうでないなら、なぜ自分だけがこんなところに置いていかれなければならないのだろう。
 大声で喚き、じたばたと地団駄を踏んで、絶対に離れまいと父の袖を掴んだものの、スペイギールが泣き疲れて眠っているあいだに父は帰ってしまった。
 目が覚めたときの、世界にひとりぼっちになってしまったかのようなあの孤独感。父に捨てられてしまったという絶望を、いまだに鮮明に覚えている。

(今なら、そうするしかなかったってわかるけど……)

 母親を亡くし、家族と引き離され、見知らぬ土地でたったひとりで。
 できることは、泣きながら母親を呼ぶくらいだった。