第一章 君の夢 17

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 祭が終われば、スペイギールは戦支度に追われるだろう。神学の勉強に充てていた時間を剣の鍛錬に費やし、将としての心得やふるまいを叩きこまれる。
 そして年が明け、春が来たら、傷ひとつない甲冑で全身を鎧って修道院を出るのだ。国王に徒なす反乱軍の旗幟となって。
 そうしたら、無力な自分は父や兄と同じように死ぬしかないだろう。アストルクスに凱旋するどころか、侯爵領を出た瞬間に命を落とすかもしれない。何も為せず、ただ首を晒しにいくだけだ。
 背後の暗闇から手が伸びてきて、スペイギールの首を手のひらに収める。回された指に力が加わる。けっして気道や血管を圧迫するほどの強さではない。しかし力は少しずつ増していき、真綿で縊るようにスペイギールを苛む。
 息苦しさに耐えられなくなり、スペイギールはまぶたを開いた。
 藍色に暗んだ森の中に、新雪のように清らかな花がひっそりと咲いていた。重なりあう枝葉のあわいからこぼれた月光が白い花びらを透かし、エオルゼの髪や頬に光の欠片を落とす。弾けた欠片はつややかな睫毛の上に留まり、小さな星くずとなって琥珀色の瞳に宿った。

(……おれだけじゃない。エオルゼも――)

 ぞっ、と全身の肌が粟立った。焦燥に駆られた腕がエオルゼの手首を捕まえる。ぼんやりとしていたエオルゼは、突然のスペイギールの奇行にびくりと身体を竦めた。

「ギール様?」
「……エオルゼ」
「はい」

 掴んだ手首のぬくもり。一瞬の緊張から徐々にほどけていく細い腕。答える声や向けられる双眸に込められたスペイギールへの親愛。
 今、手の中にあるそれらを道連れに、スペイギールは死地へ赴くのだ。

「おれには無理だ」
「え?」
「やっぱり、〝立派な当主〟は無理だ。おれにはできない」
「……何かありました?」

 やさしく尋ねるエオルゼをまっすぐに見つめる。

「おれは、エオルゼを死なせたくない。勝敗の見えてる負け戦になんか連れていきたくない」

 直後、エオルゼの顔がさっと凍りついた。

「負け戦だなんて――」
「思いつきで言ってるわけじゃないよ。勉強しはじめて、自分の置かれた環境や立場を教えられて、それから世情を詳しく知るようになって。知れば知るほど疑問だった。おれたちがアストルクスに帰るなんて、絵空事じゃないかって」
「そんなことは」
「だって、あきらかにおかしいだろ? こっちは七千で国王軍は三万。四倍以上の差があるのに、戦略だけで補えると思う? 金で雇った傭兵だって言うけど、戦いを生業にしている分、経験豊富なはずだ。それに国王は軍費には糸目をつけないと聞くから、きっと大枚を叩いて質のいい傭兵を雇ってる。その傭兵団に対して四倍の兵力を発揮しろなんて、いくらなんでも無理難題だ。ばかげてる」

 ふたたび緊張した手首を逃がさないように、スペイギールは力を込めた。

「なのに……おれよりずっと現状を把握しているはずの侯爵たちは、絶対に勝つって信じてるんだ。ヘリオスこそが正義だ、必ず主のご加護があるって。そんなものあるわけないよ。本当に女神がヘリオスを守ってくれるなら、父さんや兄さんが死ぬわけない。それぐらい、おれでさえわかるのに」
「……アストルクスを取りもどすのは、お祖父様の代からの悲願ですから。反逆者であるエウルが、聖都を蹂躙するのを見過ごすわけにはいきません」

 エオルゼはスペイギールの手にもう片方の手のひらを重ねた。

「大丈夫ですよ。ギール様にはわたしたち四晶家がいます。侯爵もエングラー大司教もいます。きっとアストルクスへ帰れます」
「本気でそう思ってる? 父さんや兄さんが死んで、スヴェンも死んで、おれだけしか残らなかったのに、本気で勝てると思ってる?」

 父親の名を出されて、エオルゼに動揺が走った。それが答えだった。

「どうあがいても、おれたちにはもう無理なんだ。いいかげんに現実を受け入れるべきだ」

 エオルゼは萎れるように顔をうつむけた。握った手のひらがだんだんと冷えていく。

「……それでも、わたしたちはアストルクスを目指さなければなりません。わたしたちが主の血を受け継ぐ末裔であるかぎり」
「おれはアストルクスに興味はないし、総大司教の椅子もほしくない。命を賭ける価値があるとは思えない」
「そんなことをおっしゃっては……」
「おれが守りたいのは、名誉や誇りじゃない。――ほしいのは、今みたいな静かで穏やかな時間だ」

 すとん、と言葉がスペイギールの中心にはまった。ずっと埋まらなかった隙間に合う答えが、ようやく見つかったと思った。
 自分の為すべきことは――自分にやれることは。

「おれは、このまま平穏に暮らせればいい。戦果もなく、大切な人が死ぬだけの戦争は終わらせて、ここみたいな平和な村を作りたい。そこで畑や家畜の世話をして、一生暮らすんだ。王やエウルを殺すことばかり考えているより、ずっと幸せだと思わない?」
「……わたしは……」
「エオルゼだって、戦うのはいやだろ?」

 うなだれた顔をのぞきこむ。睫毛に隠されて視線は合わせられない。

「……去年、ひさしぶりに会ったエオルゼは、びっくりするほど痩せてて、感情も希薄で、ふとした拍子に消えてしまいそうで怖かった。けれど、ゲルツハルトにいるあいだに顔色もよくなったし、おれに笑ってくれるようになった。時間があるときに料理をしてるのも知ってる。戦わなければ髪だって伸ばせるし、剣だって持たなくていい」

 はっ、と弾かれたようにエオルゼの顔が上がり、スペイギールを凝視した。

「どうして……」
「昔、剣を習えって言われて髪を切ったときに、布団の中で泣いてたから」

 苦笑とともに告白すると、エオルゼは気まずそうに目をそらし、結わえた髪をくしゃりと掴んだ。

「……そんなに、わかりやすいですか」
「だって……ずっと、見てたから。昔からずっと、エオルゼだけを」

 幼い日に彼女が好きだと自覚してから、毎日その姿を追いかけてきた。麗らかな春の日も、燦々と照る太陽に麦の穂が輝く日も、錦の森へ一緒に木の実を拾いに行った日も、しんしんと降る雪に身体を縮こまらせながらかまどの火を共有した日も。ヘリオスのせいで、少女のエオルゼに過酷な重責が課せられたのだと知った日も。

「おれはもう、無意味な戦いは続けたくない。すぐには無理かもしれないし、全員を説得するのは難しいかもしれない。けれど、どれだけかかっても、おれは諦めない。必ず和平を実現させて、どこかにおれたちの村を作る。毎日同じ食卓を家族で囲んで、毎日安心して寝床に入れるように。家族がひとりも欠けずに、みんなが笑顔でいられるように」

 スペイギールは上衣の襟をくつろげて、首から提げていた革紐を引っぱりだした。
 普段は着衣の下に隠されている紐は深い渋色をしていて、先端には小さな袋が結わせてある。袋の口を開くと、中から親指の爪より大きなサファイアを戴いた指輪が、ころりと手のひらに転がり落ちた。母親の形見だった。
 体温でほんのりと温まった指輪は、宵闇に包まれながらも清澈な輝きを放っていた。吸いこまれそうな深い青を宿した貴石をエオルゼの方へ向けて、ゆっくりと差し出す。

「そうしたら――全部終わったら、そこでおれと一緒に暮らしてほしい」

 エオルゼが息を呑んだ。

「四晶家の人間はヘリオス家と縁を結べないんですよ。主の怒りにふれると言い伝えにあるでしょう?」
「知ってる。ヘリオスと四晶家の均衡を保つための規律だろ。女神の怒りなんてでたらめだ」
「ですが、五家の間で争いが起こったのは事実です。主の天罰はなくても、災いを招くのは明白です。大切なお母様の指輪でしょう? どうかしまってください」

 まるで小さな子どもを説得するような言いぐさだった。
 一旦離れたエオルゼの手をふたたび捕まえる。スペイギールの手のひらでも易々と覆い隠せてしまうほど、それは小さい。

「エオルゼ、おれは本気だ。ずっと好きだったんだ。ずっと昔から」

 スペイギールの碧い視線に絡めとられた双眸が、困惑の色を浮かべていた。白い喉は緊張に震え、ぎこちなく胸の膨らみが上下する。薄紅色のくちびるは薄く開いたまま、細く喘ぐように言葉を探していた。

「……もう、とっくに忘れたと思っていました。だって、ギール様はあのときはまだ四歳で……わたし、頬を真っ赤にしてかわいいなって思ったんです」
「あのときから本気だよ。十三年間、エオルゼだけを追いかけてきた」

 くちびるをきゅっと噛んで、エオルゼは押し黙ってしまった。頬にこぼれた髪の先から野バラが薫り、距離を詰めたスペイギールの鼻先をかすめた。月明かりを弾く睫毛に縁取られた瞳は、いまだにスペイギールへ注がれていたが、応えが返ってくる気配はない。

「受けとってくれないかな」

 握った手のひらが熱を帯びる。彼女のものか、あるいは自分のせいか。

「……受けとれません」

 わずかな間を置いて返された意思は、掠れていながらもはっきりとしていた。指輪を載せたスペイギールの手のひらが閉じる。

「じゃあ捨てる」
「え?」
「エオルゼが受けとってくれないなら必要ない」
「そんな、お母様の形見を捨てるなんて!」
「母さんが、将来のお嫁さんに渡しなさいってくれたんだ。エオルゼ以外に渡すつもりはないから」
「っ、だめです。お母様のお気持ちを考えて、どうか大切にしてください」
「じゃあ受けとって」
「無理です。わたしはエルー家の者ですから。でも捨てないでください」
「エルー家じゃなかったら受けとってくれる?」

 ひくり、と手のひらの下の指先が強ばった。そのままエオルゼは思考が焼き切れてしまったかのように動きを止めてしまった。
 家のために長い髪を切り落とし、剣を握ったエオルゼの、そのしがらみを壊した先にある本当の心を知りたかった。エルー家の当主ではなく、一族の娘でもなく、エオルゼというひとの純粋な想いを。
 答えが導かれるのを、スペイギールは息を潜めて待った。鳥も木々も寝静まり、村の喧騒も遠く、互いの息づかいや瞬きの音さえ聞こえそうだった。
 どれほど待っただろうか。短くも長い静寂ののち、エオルゼのまぶたがゆっくりと下りた。スペイギールに握られた手にちらりと視線を落とすと、小さく頭を振る。

「……わかりません。ごめんなさい」

 スペイギールは、そっと彼女の手を離した。指先に残った熱に心臓が痺れる。甘やかな痛みと安堵は胸から全身へ伝播していく。スペイギールも緊張していたのだろう、ふっと頬が弛緩するのがわかった。

「じゃあ、答えが出るまで持っていて。いらないと思ったら捨ててくれていいから」

 拳を開き、ふたたび指輪を差し出す。エオルゼは眉尻を下げていたが、スペイギールが引き下がるつもりがないのを悟ると、ためらいつつも指輪を手に取った。
 サファイアに淡い月明かりが一条落ちる。昼と夜のあわいにおける須臾の天穹が、エオルゼのたなごころで蘇る。
 よく磨かれた琥珀のような瞳は、閉じこめられた空を映して、銀砂をまぶしたように煌めいていた。昔、スペイギールは蝋燭の火灯りに明らむ彼女の瞳を眺めるのが大好きだった。スペイギールしか知らない秘密の宝石を見つけたようで、小さな胸はいつもどきどきしていた。
 一度は失ってしまったと思った。けれど今、貴石はつややかさを増してスペイギールの目の前にある。
 いまだに胸を占める甘美な疼きに苛まれながら、いつまでもこうしていたいとスペイギールは願った。そしてまなうらに灼きつける。
 ――自分はこのうつくしい彼女を、一生忘れない。

 

 

 気怠げに部屋の角に居座っていた夜の空気が、開け放たれた窓から逃げていく。代わりにするりと入ってくる朝の微風に前髪を遊ばせながら、スペイギールは中庭を見下ろしていた。
 朝の礼拝が終わり、質素な修道服をまとう修道士たちが、沈黙を友に庭の手入れをしていた。院内の草木を整えるのも、中庭や敷地内に咲く花で祭壇を飾るのも大切な日課だ。丁寧に雑草を抜く姿は、村の農夫となんら変わりがない。

「そろいました」

 扉が閉じる。低く響く声に促され、うん、とうなずいてみせる。スペイギールはガラス窓を閉じて、腰かけていた書き物机から下りた。
 机の前には、四晶家の当主が一列に並んでいた。礼拝のあと、話がしたいと自室に呼びよせたのだ。
 夏至祭の余韻は一夜ですっかりと払われて、修道院は日常に戻りつつある。祭に合わせて来訪していた領主たちも、そろそろ帰り支度を始める頃合いだ。
 彼らが自領に戻る前に――特にカールステット侯爵が屋敷に戻る前に、どうしてもしておかなければならないことが、スペイギールにはあった。

「聞いてほしいことがあるんだ」

 四人は威儀を正して、主君の言葉に耳を傾けていた。その中で、エオルゼだけがスペイギールしか気づかないほどの小さな反応を示した。秘密を知る者だけが持つ罪悪感が、彼女の肩を緊張に凍らせる。
 スペイギールはラズウェーンに焦点を定めた。見返してくる灰青の瞳は、突然の招集にも動じていない。知恵も経験も豊富で、侯爵や大司教からも格別の敬意を払われる彼と対峙するには、相応の気概が必要だった。

「真剣に聞いてほしい。これは、ヘリオス当主としておれが出した結論だ。子どもの戯れ言だと笑い飛ばすな」
「承知しました。謹んでうかがいましょう」

 ダシュナとバルクの表情が引きしまる。ラズウェーンに変化はないものの、睨みつける双眸に年若いスペイギールを侮る色はない。
 力みすぎたのか、肩や背中がぎしぎしと痛かった。握った手のひらは汗にじっとりと湿っている。
 ともすればうなだれそうになる胸を大きく張り、スペイギールはおとがいを上げた。肺に送りこんだ空気に威勢を乗せて、力強く四人へ発する。

「おれは、アストルクス奪還を諦める。ヘリオスの名を受け継ぐ者として、その意思をここに宣言する」