第一章 君の夢 15

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 スペイギールが参事会室で、あるいは昼餐や晩餐で疲労を募らせているころ、ゲルツハルト村は間近に迫った夏至祭の準備に忙しかった。
 一年でもっとも日の長い夏至を祝う祭は、太陽を名に戴くヘリオス家にとって重要な祭事だ。また、アストルクスよりはるか北に位置する侯爵領では、短い夏を目一杯に楽しむ行事でもある。
 そのため、修道院では儀式としての色が濃いが、村では夜を徹して賑やかな宴が催される。広場の菩提樹の隣には草花で飾った柱を立てて、焚き火を燃やし、村人はごちそうに舌鼓を打ちながら踊り明かすのだ。
 相変わらずわずかな時間の隙間を見つけては、祭の準備を手伝いに来るスペイギールを、陽気な村人たちは諫めながらも歓迎した。料理を担当する女たちは、当日のごちそうの献立をこっそり耳打ちして、「取っといてあげるからね」と約束してくれた。今日は試作品のパイを分けてもらって得をした気分だ。
 短い労働のあと、修道院へ戻る道すがら、まだ余熱の残るひき肉のパイを頬ばる。さっくりと焼かれたパイ生地に歯を立てれば、熱々に溶けたチーズと肉汁が口いっぱいにあふれた。遅れて、香ばしい匂いがふわりと鼻腔へ抜ける。

(イグナーツに見つかったらまた怒られるなぁ)

 少年の怒声が耳に蘇る。しかし思い浮かんだイグナーツの顔は、チーズとともにとろけていった。
 冷めてしまったら楽しめない、今だけの贅沢だ。部屋へ戻り、行儀よく手を洗って椅子に着くまで待てるはずがない。
 ひき肉の旨味を存分に味わってから、スペイギールは大口を開けて二口目に取りかかった。中心は肉がぎっしりと詰まっていて、特に食べごたえがあった。
 三口でパイを平らげると、証拠隠滅のために手についた脂を小川で洗い流した。上衣の裾でしずくを拭いながら軽く走れば、修道院はすぐだ。
 木立を抜けると、綿雲から顔を出した太陽が燦と照る。寸足らずな影がスペイギールの足元に落ちた。
 夏至が近い太陽は、まだ蒼穹から降りてくるつもりはないらしい。時計はすでに夕食の支度を始める時分を指している。
 いつもならもう少し村でゆっくりとできるのだが、来春の開戦に向けた評議のため、または夏至祭のためにやってきた客人との晩餐の支度をしなければならなかった。
 夏至祭は楽しみだ。今年は接待があるし、礼拝と会食の予定が入っているので憂鬱な面もあるものの、食事が終わればその後は何もないと聞いている。
 言うまでもなく、スペイギールは村へ遊びに行くつもりだった。焚き火も囲まずに夏至を越すなんて、人生の楽しみを知らない愚か者のすることだ。問題はどうやって抜け出すか――だが。
 思案に耽りながら芝生を歩いていると、教会堂の脇に生える青々としたライラックのかたわらに、見慣れた姿を見つけた。結わえた栗毛の先が、風にふわふわと踊っている。

「エオルゼ――」

 スペイギールは彼女を呼ぼうとして、もう一人、隣に立つ人影に気づいた。
 背丈と身形からして、それは男だった。うなじでまとめた長い赤銅色の髪に、木もれ日が細かく散っているのが見てとれる。
 なにやら話しこんでいる様子だったが、そのわりにエオルゼの表情が芳しくなかったので、スペイギールは足を速めてライラックの木へ近づいた。下草を踏む足音に気づいた二人がこちらを向く。
 スペイギールは遠慮なくエオルゼの横に並び、男をじっと観察した。覚えのない顔だった。

「誰だ?」

 険を含んだ誰何に、男は肩を竦めてエオルゼに無言で助けを求めた。まるで生意気な子どもの扱いに困ったかのような態度だ。どうやら男の反応は、スペイギールの正体を知った上でのことらしい。
 ただでさえ悪かった男の印象が一気に降下する。地に落ちたそれは、今後みみずのように地面を這うことが決定した。

「イエフ伯爵家のオーヘン殿です、スペイギール様」
「イエフ家……?」

 エオルゼがため息混じりに紹介した。頭の中に築いた人物相関図からイエフ伯爵を導き出すと同時に、スペイギールの眉間に深いしわが現れた。
 イエフ伯爵は公には国王側にもヘリオス側にも与しない、中立の立場を取っている諸侯だ。領地はカールステット侯爵領の北西に位置し、周辺地域ではイエフ伯爵領でしか採掘できないめずらしいバラ色の大理石で富を築いた、裕福な一族である。その莫大な資産に基づく私兵で領地を警護しているので、国王の圧力にも屈することなく中立を保っていられるのだ。
 境界を接する領主が国王派の勢力ではないことは幸運だ。何度か伯爵とやりとりした書簡の慇懃無礼な筆致が、ヘリオスと関わるつもりがないことを物語っていたとしても。
 イエフ家とは義務的な書簡を交わしたきりで、それ以来交流はなかった。なのに、なぜいきなり現れて、エオルゼと話しこんでいたのだろうか。
 通常、来客があればスペイギールに知らされる。初対面ならば特に、面会を待つのが修道院での規則だ。
 それを知らないはずがないオーヘンは、悪びれたそぶりも見せずに、整った顔に柔和な笑みを浮かべた。

「お目にかかれて光栄でございます、スペイギール様。父の名代として、夏至祭に参加するために参りました」

 肩下まで髪を伸ばすのは、都の流行だと聞く。細やかな織模様が見事な服には金のボタンが並び、腰帯にも金細工と宝石が飾りつけられていた。袖からは、真っ白な手編みのレースを惜しみなくのぞかせていた。
 スペイギールより少し上にある顔は品よく整っていて、美丈夫と評されるものだ。些細なしぐさや言葉遣いからも、彼の洗練された教養が見受けられる。
 だとしても、スペイギールのオーヘンに対する評価は変わらない。こんな人目を避けるような場所で、エオルゼと二人きりだったのが一番気に入らないのだから。

「……ふうん、そう」

 おおげさにしかめ面を造り、ぶっきらぼうに相づちを打つ。
 じろじろと観察してくる若当主に、オーヘンはただ苦笑いするだけだった。いつまで待っても、修道院の慣例を破った理由や詫びを述べる気配はない。愛想よくしているが、底意は父親と同じだ。

「では、またのちほど、晩餐の席でお目にかかれればと存じます。――エオルゼ、今年もさくらんぼのパイを楽しみにしていますよ」

 オーヘンは朗らかに告げると、颯爽とした足どりで去っていった。背中に垂らした髪が子馬の尾のようにゆらゆらと揺れるのを、スペイギールはいつまでも睨みつけていた。

「……何言ってるんだ、あいつ。夏至祭と言ったらドーナツだろ」

 すでにうしろ姿は遠く、スペイギールが吐き捨てた罵言は本人には届かない。かわりに、エオルゼがぴくりと反応した。

「ドーナツ、ですか?」

 行儀よく並んだ睫毛を持ちあげた榛色の双眸には、驚きがあった。スペイギールはくちびるを尖らせて説明した。

「昔、エオルゼとカミラがよく作ってくれただろ。セインと一緒に生地を丸めて、それを油で揚げてくれた」
「あぁ……。よく覚えていますね」
「忘れるわけないよ」

 エオルゼは忘れていたのだろうか、年に一度の、大切な行事の思い出を。
 夏至祭のごちそうといえば、スペイギールにとってはドーナツだ。粉雪のように真っ白な小麦粉と砂糖を使った生地を一口大に丸め、油で揚げたドーナツに、森で摘んできた黒スグリのジャムを添えたお菓子である。大皿いっぱいに作ってくれたのを、毎年セインと競って食べていた。

「ていうか、そもそも、なんであいつがエオルゼに注文をつけるんだ?」
「……さぁ……」

 エオルゼの眉が曇る。落ちてきた前髪を指先で掬ってから、彼女は続けた。

「もともと、父がわたしの作る菓子を喜んでくれたので、調子に乗って手間のかかるパイを作ったんです。そうしたら、なぜか毎年作るものだと勘違いされたみたいで……」
「スヴェンが?」
「ええ。多分、あまり甘い物は得意じゃなかったと思うんですけれど。ここに来るまで父に料理を作る機会がなかったので、つい」

 榛色の視線が足元に落ちた。沈鬱な横顔に、スペイギールの胸がちくりと痛んだ。
 エルー家の先代当主だったエオルゼの父親は、今の彼女のようにゲルツハルト修道院を生活の拠点としていたので、家族と顔を合わせる機会は一年のうちに数日あるかないかだった。かろうじて季候のいい夏や秋に帰ってこられるかどうか――それも忙しい日々に翻弄されて、数年会わないことも多かった。エルー家で養育されたスペイギールが彼の記憶をほとんど持たないように、姉弟にも父親との記憶はほとんどないだろう。
 幼少期にともに過ごせなかったからこそ、スヴェンが成長したエオルゼとともに過ごす日々を喜んだことは、たやすく想像できる。愛娘が自分のために作った料理なら、どれほど苦手でも平らげたにちがいない。

「ごめん……」

 親子の大切な思い出を汚してしまった気がした。スペイギールの悄然とした声に、はっ、とエオルゼが顔を上げる。

「謝るようなことじゃありません。オーヘン殿じゃなくて父のために作っていたんですから、ギール様のおっしゃるとおりですよ。せっかくですから、今年はドーナツを作ってみます」
「……本当に? いいの?」
「ええ。パイよりドーナツの方がうんと楽ですし」
「スヴェンが怒らないかな」
「まさか。父はきっと、ギール様に感謝すると思います。甘いさくらんぼのパイよりドーナツの方がずっと食べやすい、助かった、って」

 愁眉を開いて、エオルゼはくすりと笑った。横顔に落ちていた青白い陰はもう消えていた。
 暗い表情をしたエオルゼを見るのはつらい。たおやかで心優しい彼女にはふさわしくない。緑の天蓋の下で、心地よい風に吹かれながら微笑んでいる方がずっとずっと似合っている。

「……じゃあ、楽しみにしてる」

 はい、とエオルゼは楽しそうにうなずいた。
 心臓がことりと音を立てる。頬がだんだんと上気してくるのを、スペイギールは感じていた。