第一章 君の夢 14

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 耳朶をなでる風が自分の名を呼んだ気がして、スペイギールは地面に注いでいた視線を持ちあげた。右手に鎌、左手に刈ったばかりの野草を握ったまま立ちあがる。短く切りそろえた前髪が清風に揺れ、うっすらと汗ばんだ額をくすぐった。
 ぐるりと周囲を見渡せば、干し草用の野草を刈る人々の向こうに、すらりとした人影があった。男物の衣服に身を包んだ姿は遠目には小柄な男性だが、男にしてはやわらかな身体の輪郭と重心の軽やかな足取り、そして肌の白さが目立つ。
 燦々と照る太陽の下でスペイギールは目を細め、その正体を確かめると、野草を持ったまま大きく腕を振った。

「エオルゼ!」

 人影はスペイギールを見つけると、ひとつにまとめた髪を跳ねさせながら駆けてきた。
 開いた距離がもどかしくて、スペイギールも地面を蹴る。近づくとエオルゼは足を緩め、頬にはりついた髪を指先で払いながら報告した。

「皆様おそろいです。修道院へ戻ってください」
「わかった。ありがとう」

 スペイギールは近くにいた村人に鎌と野草を託し、エオルゼとともに歩き出した。

「まだ余裕があると思ってたけど、もうそんな時間?」
「いえ、予定より早く到着なさるそうです。さきほど知らせが届きました」
「そっか。じゃあ急いで戻らないと」

 野良仕事をしたままの格好で参事会室へ足を運べば、集まった領主や司教たちの不興を買うだろう。顔を洗って清潔な服に着替え、できれば軽食もとっておきたい。彼らとの評議はかなりの体力を要するのだ。
 足を速めると、自然とエオルゼも歩調を合わせる。彼女が歩きやすいように、身長差の分だけさりげなく歩幅を狭くした。
 人々の前で名を明かしてから、およそ八か月が経っていた。スペイギールはカールステット侯爵とエングラー大司教に求められるがまま、ヘリオス家当主としての教養を学んでいた。
 たとえば、ヘリオス家を総大司教と仰ぐ様々な人々の名前。彼らの社会的地位、領地や居住地、年齢や性別や家族構成。それら個々の情報の共通項を照らしあわせ、線で結び、ヘリオスを取り巻く人間関係の縮図を組みたてていく。同様のものを、ル・マヌンの宮廷やエウル=ヘリオス家周辺でも構築する。
 自分を支える者たちの名前を覚えるかたわらで、スペイギールは彼らに手紙を認めた。家督を継いだ旨と、『若輩者ゆえあなた方の支援が必要だ、よろしく頼む』といった内容だ。
 ラズウェーンが考えた文章をそのまま写しただけだったが、スペイギールの署名が入り、封蝋を捺されると、ヘリオス家の正式な書簡として各地へ運ばれていった。
 年若く未熟なスペイギールは修道院から動かず、手紙でのやりとりを主な社交手段にした。侯爵やラズウェーンが、実戦慣れしていない少年を外へ出すのを嫌ったからだ。
 さいわい、ル・マヌン側にも目立った動きはなく、スペイギールが戦場に駆り出されることはなかった。ゲルツハルト修道院には各地から客人が訪れるようになり、スペイギールはヘリオスの若き当主として彼らとの面会を重ねていった。
 一日の予定は朝から晩まで分刻みに決められていたし、休日などないに等しい。
 それでも、わずかな自由時間には、墓参りや村へ顔を出すのを続けている。ゲルツハルト村の人々は、スペイギールの正体を知っても温かく迎えてくれたし、むしろそれまで以上に世話を焼いてくれた。
 修道院の厨房へ届けられる食材は常に大量で、そのうえ遊びに行けばあれこれと食べさせてくれるので、いまだに背が伸びつづけている食べ盛りのスペイギールにとっては何よりもありがたい。
 教会堂で執りおこなわれた越年の儀式では、無事に大役を果たした。新年の祭では、スペイギールが侯爵と狩りで獲った鹿肉を村人にふるまった。
 雪が多い日には朝食前に出かけていって、雪かきを手伝った。酒樽を運び、雪解け水にぬかるんだ畑を耕して、春麦の種を蒔いた。
 やがて気分屋の春が終わり、爽やかな風の吹く六月に入れば、農作業は忙しくなる。草木が繁茂する今、やわらかい若芽のうちに冬用の干し草を刈っておかなければならないのだ。
 泥だらけのスペイギールを見るたびに、エングラー大司教は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、自由時間をどう使おうが勝手だ。
 今日も客人がそろう前に、大切な家畜の食糧確保の手伝いをしていたのだった。

「今日来るのは、ホッジズ伯爵だっけ」
「はい。伯はアストルクスに伝手があるので、王宮の動向を知らせてくれると思います」」

 八か月かけて築いた相関図の中からホッジズ伯爵を引っぱりだし、顔や人柄を思い出す。頭の中に浮かんだのは、少々太り肉ではあるが弁舌巧みな中年男性だった。

「あの人か。また麦酒エールをがばがば飲んでいくのかな」

 小川に渡された橋の上で、スペイギールはしかめっ面を作る。
 ホッジズ伯は頭が切れる人物だが、なかなかの健啖家だ。そして酒好きでもある。真っ赤な顔で酒精の匂いをぷんぷんさせられると、酒に弱いスペイギールはそれだけで頭痛がしてくるので、食事の席ではなるべく遠くにいたい。
 憂鬱な気分を小石に託して蹴り飛ばす。すると、清流を越えてふたたび横に並んだエオルゼの口から、かすかな笑声がこぼれた。

「なに?」
「いえ。だいぶ板についてきましたね」
「……そうかな?」
「はい」

 エオルゼはそっと目を細め、薄紅色のくちびるを綻ばせた。突然咲いた笑顔に、背中がむずむずとしてくる。
 少しずつではあるものの、エオルゼと言葉を交わす機会も増えて、今では昔のように気兼ねなく会話を楽しめるようになっていた。慎重な彼女は互いの立場を慮って言葉遣いは崩さない。しかし、二人のあいだにあった壁はもう取り払われている。
 今、目の前の木陰でスペイギールを見上げる女性は、幼いころから憧れつづけてきたエオルゼだった。可憐な少女は淑やかな女性へと変容して、笑むたびにスペイギールの心臓を高鳴らせる。
 白いうなじを寒々しく晒していた髪も肩に触れるまでに伸びて、今はうしろでひとつに結わえている。
 もう少し伸びて編めるようになったら、きっとよく似合う。スペイギールはそれが楽しみでしかたない。
 木立を抜けると、自室のある館が見えてくる。出入り口には腕を組んだ一人の少年が立っていた。苛々としながら周囲に目を配っていた彼は、スペイギールとエオルゼの姿を認めた瞬間、カッと眉を吊りあげた。

「スペイギール様! また村へ行っていたのですか!?」

 うげ、とスペイギールが呻く。少年は進路を塞ぐと、天敵に出くわしたかのようなスペイギールを鋭く睨めつけた。

「私はスペイギール様が土いじりなどする必要はないと、再三申しあげたはずですが? しかも、このような大事な日に部屋を空けるなど――」
「あー、はいはい。わかった。わかったから」
「何ですか、その面倒くさそうな返事は。真面目にお聞きください」
「聞いてます。聞いてるから、そこ通してくれ。顔も洗いたいし、着替えないと」
「用意してあります。ご準備ください」

 つんと澄ました少年とともに、スペイギールは館の階段を昇った。いつのまにか、エオルゼはあとを少年に頼んで去ってしまっていた。二人きりになっても少年の小言は止まず、自室へ戻ってもなお続く。
 彼はエングラー大司教の息子で、名をイグナーツといった。スペイギールと同じ十七歳で、当主の役割に奔走する彼を世話する従者として、大司教から使わされたのだ。
 女神シェリカの教えに聖職者の妻帯を禁じるものはないが、修道に励む貞潔な修道士は独身の者が多い。当然、院長であるエングラーも当てはまるとスペイギールは思いこんでいたのだが、堅物に見える彼には一粒種の息子がおり、『よい手本』として連れてきたのだ。
 自分と同じ金髪を持つ少年にちょっぴり親近感を覚えたのもつかのま、イグナーツは父親に似て、スペイギールの一挙一動に口を入れずにはいられなかった。
 聖職者あるいは人の上に立つ者としてのふるまいに疎いスペイギールの言動は、それらの教育を受けたイグナーツにしてみれば、型破りで非常識に映ったのだろう。
「十七にもなって麦酒で酔うなんて」「大口を開けて食べるのは行儀が悪い」「地面に寝転がるなんてみっともない」等々、セインならとうてい指摘しないことまで彼は文句を言ってくる。
 しかし、これも身のふるまいを覚えるうえで必要だと言われれば、スペイギールは堪えるしかない。
 そして実際、繰り言をのぞけばイグナーツはスペイギールのよい手本であり、よい従者だった。修道院に慣れないセインではできない差配も、イグナーツなら可能なのだ。
 部屋には着替えと水の張られた盥、はちみつを添えたビスケットが用意されていた。手を洗ってさっそくつまむと、着替えを広げたイグナーツの叱責が飛んでくる。
 ビスケットをほおばったまま、スペイギールは肩を竦めた。

「だって、座って食べてる時間なんてないだろ? あ、水ある?」
「それでも椅子に座るふりぐらいはしてください。水はさきほど頼みましたから、すぐに持ってくると思います」

 指に滴ったはちみつを舐めているあいだに、厨房の者が水差しとコップを持ってきた。草刈りと固焼きのビスケットで渇いた喉に、ひんやりとした井戸水が気持ちよかった。
 それから息を吐く暇もなく顔を洗い、普段着から侯爵が用意してくれた衣装へ改める。身支度を終えると、イグナーツを連れて階下へ降り、参事会室のある棟まで渡された回廊を進んだ。中庭を挟んで教会堂と向かいあった建物の入り口では、セインがそわそわとした様子で待機していて、スペイギールに気づくと扉の向こうへ彼の到着を報せた。
 内側へ開かれた扉の隙間から、中へ滑りこむ。参事会室は礼拝堂のように天井の高い大きな広間で、中央に置かれたつややかな黒褐色の長机を、十人の男たちが囲んでいた。着席する顔ぶれにはすでにホッジズ伯爵もいて、空席は上座の一席だけだった。

「遅れて申し訳ありません。お待たせしました」

 スペイギールは詫びてから、おのれの席に腰を下ろした。二十の瞳が、それぞれの色を含めながら一斉にスペイギールを捕らえる。
 机の長辺に並ぶ男たちに対し、短辺にあたるこの席は、視線を前に向けるだけで全員の顔がよく見渡せる。つまり、彼らにもスペイギールがよく見えるということだ。
 ホッジズ伯は皆にあいさつをしたあと、さっそくアストルクスの動向について報告を始めた。
 アダールが斃れてからの一年、国王軍の積極的な動きは見られなかった。現国王がヘリオス家殲滅を宣言して以降、あちこちで戦端が開かれていたこれまでと比べると、異常事態と言ってもいい。
 原因は、十数年にわたる内戦による軍事費の拡大と、過度な増税への民衆の批判だった。膨大にふくれあがった軍事費に国の財政も困窮し、さすがの国王も一時的な軍縮に賛成せざるをえなかったのだ。スペイギールが血気盛んに戦場へ走る性格ではなかったのも加わり、不気味な沈黙が突如もたらされたのだった。
 ところが最近、水面下で不穏な動きが見られる。伯爵は改めて主張し、新たに得た情報をつけくわえた。

「おそらく現在は、議会の承認を得るための調整に入っているのだと思われます。詳細な時期はまだつかめていませんが、今年中に軍備を整え、来春には軍を動かすかと」
「来春か……」

 あごをしごきながら、カールステット侯爵が唸った。
 国王やエウル=ヘリオスが休戦状態に甘んじるはずがない。近いうちに、必ず国王軍は攻め入ってくるだろう。
 スペイギールの目の前に着席する侯爵は、少しのあいだ黙考したあと、知的な双眸でちらりと少年を見た。その意味は、わざわざ問うまでもなかった。

「この一年、スペイギール様のご成長は目を瞠るほどでした。大将としてのお役目もさぞご立派に務められるでしょう」

 ある司教の発言に、ひくり、とスペイギールのまつげが震える。さいわい、それを見咎める者はいない。
 ことさら上機嫌に、一人の領主が相づちを打った。

「スペイギール様は下々の者にまでやさしくお話しをされるので、兵の評判もすこぶる良いと聞いております。剣技もなかなかのものだともっぱらの噂だそうで、さすがはヘリオス家のご当主ですな」
「……それは、みんながおれを担いでいるだけです。模擬試合では負けてばかりです」

 スペイギールは誤解を正したかったのだが、彼らは「ご謙遜を」と微笑んだだけだった。

「たった一年の鍛錬で、何年も戦場に立っている兵士と渡りあえるようになるとは、すばらしいではありませんか」
「きっと来春には、四晶家の方々もスペイギール様には敵わなくなるでしょうな」

 男たちの笑声は広間の壁に反響して、波のように何度も押しよせては引いていく。口をつきかけた少年の否定は、大きな波にあえなく砕き散った。

「来春、というのはよい頃あいでしょう。雪解け水がひいてからと考えると、あと十月とつきはある。スペイギール様の戦支度も充分に整います」

 エングラー大司教が深くうなずいた。向かいあうカールステット侯爵は組んでいた腕をとくと、ぐるりと視線を巡らせ、朗々と声を張りあげた。

「では、スペイギール様の初陣は来春でよろしいですな。それまでに我々も軍備を整え、国王軍に対抗するための策を練りましょう」

 賛同のいらえが広間を満たす。一方、スペイギールや隅に控える四晶家の反応はない。
 こうして支援者の領主や聖職者がそろう評議に参加するようになって気づいたことは、スペイギールや四晶家の発言権がかぎりなく無に等しい、ということだ。彼らはヘリオス家当主のスペイギールの出席を求めても、意見は求めていない。
 そもそも、四晶家はヘリオス家に従う存在なので、陣頭に立つべきヘリオスが黙っていれば沈黙に徹する。
 年長者としてスペイギールを指導するラズウェーンも、侯爵や大司教に対して窓口になりえても、彼らと同調してヘリオスを動かすことは決してない。知りあったころはほとんど侯爵の手先と思っていたが、今ではスペイギールも認識を改めていた。
 心強い反面、責任がいや増した気もした。何か行動を起こしたければ、みずから発案し、彼らの協力を仰がなければならないのだから。
 現状、スペイギールは自分の初陣にさえはっきりと意見できず、ささやかな抵抗もおよばなかった。軍略に話題が発展していけば、もはや知識も経験もたりないスペイギールが口を挟む隙はなかった。

「現在、把握している国王軍の規模は、およそ三万人です。それに対し、我々連合軍は七千。もう少々傭兵を確保できるといいのですが……」

 ホッジズ伯爵は、外衣の上からでもわかる腹のふくらみをなでながら、言葉を濁した。
 一国の王と一貴族では、抱える兵の数も軍備も経済力も、圧倒的に差がある。過剰な増税をくりかえす国王は、戦闘で損なった兵や軍備を国庫から素早く賄えるが、ヘリオスやカールステット侯爵たちには比肩する基盤がない。

「戦場では兵の数ではなく、兵力が重要です。いくら大軍を率いようと、優れた統率者によってよく訓練された兵を的確に動かさなければ、野放しの子どもが鎧を着て枝を振りまわしているようなものです。国王の兵は所詮、金に物をいわせた傭兵ばかりですが、我々の兵はヘリオスに忠誠を誓う強者ぞろい。どちらが軍隊として格上か、火を見るより明らかでしょう」
「ですが、子どもの振るう枝であっても、数が増せば痛い。うまくあしらう知恵は必要ですぞ」
「それは、もちろん。しかし二万三千の差など、我らにとっては些細な数です。そもそも全軍が一度に押しよせて来るわけではありません。ですからご心配召されませんように、スペイギール様」

 名指しされて、スペイギールはぎょっとした。ホッジズ伯の正面に座る小領主が、赤茶けた鬚をしごきながら呵々と笑った。

「不安げなお顔をしておられましたからな。たしかに、数だけ聞けば不安でしょう。ですが国王軍は烏合の衆でございますし、なにより我々にはラスミアのご加護があります。主シェリカは慈悲深き御方、必ずやスペイギール様に勝利をもたらされましょう」
「……いや、その」

 ――怯んでいたんじゃない。そう言い返したいのを、ぐっと堪える。
 男は豊かに蓄えた鬚を指先で弄びながら、女神とヘリオスへの賛辞を連ねはじめていた。しばらく待ってもいっこうに途切れないので、エングラー大司教が強引に男の演説を終わらせる。
 議論は敵軍を欺くための方策へと白熱していった。方々から意見が出されて、盛んに机上を飛びかう。
 ときおり、思い出したようにスペイギールも発言を求められたが、新たな戦略を期待するのではなく、どの案に賛同するかを尋ねていた。
 スペイギールが堅実な作戦を支持すると、発案者の小領主は得意げな顔をしたし、熱く反論していた商人は唾を飛ばしながら持論を捲し立てた。そうなると、中立する誰かがなだめてくれるまで、身を小さくして批難に耐えるしかない。
 やがて格子窓に区切られた空が朱色に燃えるころ、ようやく評議は解散となった。しかし一息つく間もなく、同じ顔ぶれでの晩餐に駆り出される。
 昼間エオルゼにこぼしたとおり、食卓に着いたホッジズ伯爵は山のような料理をぺろりと平らげ、麦酒を水のように飲み干しては、樽のような腹を自慢げになでていた。朝からよく食べるスペイギールでも、どこに入っていくのか目を疑うほどだ。
 運よく席は離れていたものの、酒を楽しむのは伯爵だけではなかった。
 ほどなくして食堂に充満した生ぬるい酒精の匂いに、スペイギールは退席するまで悩まされつづけた。