第一章 君の夢 11

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 肺を満たす湿った空気が懐かしい。緑の匂いを存分に味わうように、スペイギールはフードの下で何度も深呼吸をくりかえす。
 森の底にたまった大気はひんやりと冷たく、毛織りの外套は湿気を含んで重く肩にしなだれかかったが、身体はそれさえも喜んでいた。
 スペイギールはふたたび粗末な巡礼者に扮して、常夜とこよの森を北西へ進んでいた。目的地は、ゲルツハルト修道院やスペイギールの育った村よりも北に位置する、国境近辺の寒冷地である。見慣れた植生や昆虫、小動物にあふれていてはいたが、この時分にしてはやはり気温は低く、季節も半月ほど早かった。
 村での捕り物をエオルゼに目撃された翌日、スペイギールは甥に会ってみたいとラズウェーンに頼みこんだ。彼は渋ったが、半日におよぶ説得でようやく首を縦に振ってくれた。
 その後の旅支度と、カールステット侯爵やエングラー大司教への説明はラズウェーンがすべて担ってくれたので、スペイギールは出発まで自室で神妙にしていたのだった。
 ザッヘン教会堂での襲撃を反省して、今回は四晶家の当主と手練れの家臣のみの少人数での旅だった。スペイギールの従者に任ぜられたはずのセインも、ゲルツハルトで留守番だ。
 徒歩の旅を続けること三日。白樺の目立つ森がとぎれ、木材を綱で組んだだけの形ばかりの門がスペイギールを出迎えた。
 藁葺き屋根の木造の家が五、六軒建ちならび、ライ麦畑の横には小さな家禽小屋があった。本来ならば、村の中心となる広場の菩提樹と礼拝堂は見当たらない。
 既視感を覚える独特のつくりだった。故郷の村にも、菩提樹ときちんとした礼拝堂はなかった。
 先に報せが届いていたのだろう。大人ひとりが通れるほどの門のかたわらで、子どもを抱いた若い女性がたたずんでいた。農婦姿でありながら粗野な立ち姿ではなく、そばかすの浮いた顔には品のいい笑みが浮かんでいる。
 スペイギールが一目でわかったように、彼女も一目で誰が義弟なのか理解したようだった。フードを下ろし、意を決して母子へ歩み寄る。
 女性の小麦色の髪は既婚者を示す頭布で隠されており、顔を母親の肩に押しつけてしがみつく子どもの髪も金色だった。歳は二十歳ぐらいだろうか。エオルゼより少し幼く見える。
 スペイギールがまじまじと観察する一方で、彼女は子どもを抱いたまま軽く膝を曲げて貴婦人の礼をした。

「初めまして、スペイギール様。お会いできるのを楽しみにしていました」
「……初めまして」

 足をそろえてお辞儀をする。女性は鳶色の目を丸くしたあと、すぐににっこりと笑った。
「わたしはヘスティアと申します。この子はアルトゥール。今年二歳になりました」

 アルトゥールはヘスティアにうながされて少しだけ顔を上げたが、すぐにいやいやと額をヘスティアの肩にこすりつけた。

「アルト、お兄さんにごあいさつは?」

 小さなアルトゥールは人見知りなのか、それきり二度とスペイギールに顔を見せようとはしなかった。産毛のようなふわふわの髪だけが、笑うようにそよそよと毛先を揺らしている。

「申し訳ありません。この子、すごく人見知りで……。ほらアルト、スペイギールお兄さんにあいさつしましょ?」

 アルトゥールはやわらかい金髪を揺らして頭を振ったあと、「いや」と拒絶の一言だけ発して押し黙った。ここまではっきり拒まれると、血縁の実感を持てずにいたスペイギールでもがっかりしてしまう。

「……本当に申し訳ありません。家へご案内します」

 ヘスティアは恥じいりながら謝ると、スペイギールたちを村へ招き入れた。少ない村人が家々の軒先に立ち、恭しく頭を垂れて彼らを歓迎した。
 ヘスティアの家は、エルー家やゲルツハルト村の農家と同じ造りで、入ってすぐには石床の居間兼台所があり、中央には家全体を暖める暖炉を兼ねたかまどが設けられていた。居間を中央にして左右に一間ずつ部屋があり、片方はヘスティア母子の寝室で、空いている一間をスペイギールに貸してくれた。

「お疲れでしょう。ぶどう酒が残っているのですけど、いかがですか?」

 旅支度をほどいたスペイギールたちに、ヘスティアが勧める。アルトゥールはいきなり増えた見知らぬ大人たちが気になるのか、母親から離れようとしない。

「あ……、おれ、あまり酒に強くないんで……」

 あら、とヘスティアはあごに指を添えた。

「じゃありんご酒にしましょうか。それともハーブ茶の方が?」
「あの」

 提案を強くさえぎり、スペイギールはきっとまなじりを吊りあげた。

「おれは弟だから、そんなにかしこまらないでくだ、……ほしいんだ。敬語は使わないでほしい」
「ですが、スペイギール様はヘリオス家のご当主ですから……」
「父さんや兄さんには、ギールって呼ばれてた。……姉さんって呼んでもいいかな」

 ヘスティアの双眸がじっとスペイギールを見つめる。かたくなに視線をそらさないでいると、上品に澄ましていた彼女のかんばせがくしゃりと破顔した。そうすると、まるで十代の少女のようだった。

「ええ、姉さんって呼んで。会えてうれしいわ、ギール。本当に楽しみにしていたの」
「……うん、おれも」

 ほっとして、スペイギールは肩の力を抜いた。

「お腹がすいたでしょう? すぐ用意するわね。そのあいだ、ちょっとアルトをあずかってもらえないかしら? あら、いいのよ、お客様だもの。どうぞ四晶家の方々もお座りになって。すぐにできますから」

 手伝おうとしたスペイギールを椅子にとどめ、アルトゥールをその膝に下ろすと、ヘスティアは袖をまくりながら台所へ向かった。エオルゼがそのあとを追いかけるが、やはり断られて戻ってくる。
 無理やり引きはがされたアルトゥールは、大きな瞳で叔父の顔を検分したあと、突然火がついたように泣き出した。手足をばたつかせて暴れるので、あわてて膝から落ちないように支えたものの、それもアルトゥールのお気に召さないらしい。泣き声に拍車がかかる。

「おかあさん、おかあさぁぁぁんん!」

 耳を劈くほどの訴えにもかかわらず、ヘスティアは悠然とかまどをのぞいてパンを炙り、酒瓶を運びながらはいはいと適当にあしらっている。あやしに戻ってくるつもりはまったくないらしい。

「アルトゥール。アルト。そんなに嫌がるなよ。おまえのおじさんだぞ?」

 スペイギールなりに宥めてみたが、効果はなかった。ふっくらとした頬をりんごのように真っ赤にして号泣する幼子を見ていると、なにか悪いことをしている気がしてきて、スペイギールまで気分が滅入ってくる。ぼろぼろと涙を流す表情がまた痛々しい。

「かわりましょうか?」

 かたわらにエオルゼが立った。慣れた手つきでスペイギールからアルトゥールを受けとり、小さな背中を撫でながらあやしはじめる。
 はじめは嫌がっていたアルトゥールも、しばらくするとヘスティアを呼ぶ声をとめ、鼻をすするだけになった。まだ小さな腕を伸ばしてエオルゼの首にすがりつき、涙で濡らした顔を肩にこすりつけている。

「あら、ごめんなさいエオルゼ様。アルトったら、本当に甘えん坊さんなんだから。お兄さんと仲良くしなきゃだめでしょ?」

 パンを皿に盛り終えたヘスティアが振りかえる。むっすりとしたままのアルトゥールの頬をつんとつついた。

「もう少しだけ、お願いできますか?」
「ええ、わたしでよろしければ」
「ありがとうございます、助かります」

 エオルゼに礼を言い、ヘスティアは支度へ戻った。食卓には炙ったパンや栗、干し果物など簡単につまめるものと、ぶどう酒やりんご酒が並べられていく。
 軽食の準備が終わるまでのあいだ、アルトゥールはエオルゼに抱かれたままおとなしくしていた。スペイギールは小さな甥がすっかり苦手になってしまった。

 

 

 

 滞在は四日間と、ラズウェーンから事前に約束させられていた。
 到着した日はゆっくりと過ごし、翌日は家事や畑仕事の手伝いをしながら、ヘスティアに家族の話をねだった。
 日頃は育児を含め、すべての仕事をひとりでこなしているヘスティアだが、のどかな寒村で暇を持てあました家臣たちがほとんどのことを請け負ったため、時間がぽっかりと余ってしまっていた。突如増えた男手に村人たちも喜び、またはひさしぶりに会う知りあいもいたのだろう。村は和気藹々とにぎやかしい。
 小さな村にはバルクの妻子も住んでいて、あいさつを受けて初めてその存在を知ったスペイギールは唖然としてしまった。バルクの口に、一度でも家族の話題がのぼったことはなかったのだ。
 乳飲み子を抱く女性と五歳ぐらいの少女を目の前にしても、バルクは顔色ひとつ変えなかった。なぜか無性に腹が立って、スペイギールは怒鳴りながら彼を家族のもとへ追い出したのだった。

「なんで誰も言わないんだ? おれが気づかなかったら、顔も見ずに帰るつもりだったわけ?」

 ぷりぷりするスペイギールに、ヘスティアは声を立てて笑った。

「そんなことないわ。きっと気恥ずかしかっただけよ」
「恥ずかしそうには見えなかったけど」
「人前では隠すものよ。男の人だもの」

 でもさぁ、と不満にくちびるを尖らせながら雑草をむしる。根に絡みついた土をおおざっぱに払い、背後の籠に放り入れると、ヘスティアはまだくすくすと笑声をもらしていた。
 こぢんまりとした庭にはバラやカミツレなどの花のほかに、ハーブや野菜が植えられていた。秋バラの花は終わりが近く、野菜もほとんどが収穫が済んでいる。
 スペイギールが花壇にかがみこんで雑草と格闘する隣で、ヘスティアは散ったバラの剪定をしていた。ダシュナとラズウェーンは村の雑用を手伝いに、エオルゼはアルトゥールと一緒に畑の畔で土遊びをしに出かけていった。

「綺麗に整えてあるけど、姉さん慣れてるの?」

 うっすらと額にうかんだ汗をぬぐいながら、スペイギールが尋ねる。
 本来ならば、彼女もゲルツハルト修道院で人々に世話される身分だ。そうでなくても、貴族の子女として傅かれる生まれのはずである。ヘリオスの血統を守るためとはいえ、鄙びた地で農婦のまねごとはさぞ身につらいだろう。

「あら、話さなかったかしら。わたし、実家では畑仕事をしていたのよ」
「そうなんだ?」
「そうよ。ええと……、どこまで話したかしら」
「おれと入れちがいにゲルツハルトを出たってところまでかな」
「じゃあ、実家のことは話してないのね」
「侯爵の知りあいっていうのは聞いたけど……」
「そう。父とカールステット様が昔なじみでね」

 ぱきん、と小気味よく剪定ばさみが枝を断つ。

「昔なじみって言っても、うちはもともとあまり豊かじゃなくて。使用人も三人しかいなかったし、料理は母とわたしで作っていたの。繕い物も自分でするし、収穫期には領民と一緒に畑仕事もしたわ。そんな小領主の娘がヘリオス家に嫁入りするんだから、世の中なにが起こるがわからないものね」

 肩を竦めるヘスティアのくちびるはいまだに弧を描いていたが、それは昔を懐かしむ深い微笑みだった。

「アダールには一度しか会ったことがなかったから、縁談を申しこまれる心当たりがなかったの。たぶん、周囲から結婚を切望されていたんだと思うわ。お義兄様がたは独り身のままだったし、実際、一所には留まれない生活を送っていらっしゃったから、お相手を見つけるのもなかなか難しかったのでしょうね。でも結局、わたしもアダールと長くは暮らせなかったけれど」
「……兄さんたちは、村の人たちに好かれてたんだね」
「そうね。支援者の領主を訪ねたり戦に行ったりであまり修道院にはいなかったけれど、新年や季節の祭のときは村の人との交流を大切にしていたわ。そうそう、あそこのお野菜、おいしいわよね。一度畑を見てみたかったんだけど、さすがに……ねぇ? でもここに来ることがわかってたなら、育て方のコツを教わっておけばよかったわ」

 スペイギールは作業に集中しているふりをして言葉を濁した。部屋を抜け出しては村で野良仕事を手伝っているとは、とても言えなかった。

「疲れたでしょう? 少し休みましょうか。そろそろアルトのお昼寝の時間だしね」

 ヘスティアはバラの上へかぶせていた身体を起こし、両腕で空をつきながら背伸びをした。手にこびりついた土を払いながら、スペイギールも腰を上げる。
 二人そろって畑の方へ首を伸ばすと、冬麦の種を蒔く人々の中に、座りこむエオルゼとアルトゥールの姿があった。村道の隅にぺたりと尻をつけて黙々と土をいじるアルトゥールにつきあって、エオルゼも何かをこねている。土だんごでも作っているのだろうか。
 会話は聞こえなかったが、アルトゥールが手にしただんごを差し出すと、エオルゼは穏やかに目を細めて、それを受けとった。
 山から吹きおろす北風が、スペイギールの胸を撫でては通りすぎていく。突風に耐える古い家のようにぎしぎしと鳴く胸の奥で、懐かしい少女の笑顔が成熟した女性に成長していく。

「エオルゼ様には、ゲルツハルトにいたときから懐いているのよ。あんなに小さくても、女の人の方が好きなのねえ」

 今度はだんごにもなっていない土の塊を、アルトゥールが指し示す。エオルゼは首を傾げながら、土のついた指先でそれを掬う。耳にかけていた髪がはらりとこぼれて、白い頬を半分隠した。掬った栗毛の下から現れたのはやはり笑顔で、彼女はどこかうれしそうに小さな暴君の言いなりになって土くれを動かしていた。

(……おれにはちっとも笑ってくれないのに)

 手や靴を汚してまで小さい子につきあって、いったいなにが楽しいのだろう。アルトゥールもエオルゼに一人前に指図しながら、汚い手でベタベタと服や手にさわっている。いくら二歳でも厚かましすぎはしないだろうか。

(あぁ、またあんな手でエオルゼにさわって――)
「ギール、もしかして妬いてるの?」
「は? ……え?」

 気づくと、ヘスティアが興味深くスペイギールを観察していた。のぞいてくる鳶色の瞳は、いたずらめいた光で輝いている。

「アダールが言ってたの。一番下の弟が、一緒に暮らしていた女の子と結婚したいって言ってるんだって。エオルゼ様のことでしょ?」
「んな……っ!?」
「そんな顔してたらわかるわよ」

 堪えられなくなったのか、ヘスティアはふふふ、と白い歯を見せて笑った。内側から炙られて赤くなった頬をスペイギールはあわてて隠そうとしたが、すでにあとの祭だろう。

「……兄さん、そんなことまで言ってたんだ」
「なんでも知ってるわよ。夫婦だもの」

 得意げな彼女と無言で対峙したが、すぐに敵わないと悟ってその場にうずくまった。
 いまだにほてっている頬を手のひらでごしごしと擦ってみたものの、熱が引くわけでもさらした醜態が消えるわけでもない。羞恥の文字が頭の中で飛びかい、喉がおのずと雄牛のような唸り声をあげる。

「素敵な人ね。子どもも好きみたいだし」

 頭を抱えるスペイギールの隣にヘスティアも腰を下ろした。腕の隙間からちらりとうかがえば、満面の笑みと視線がぶつかる。話題を変えることも、逃げることも許してくれそうにない。
 腹の中でアダールへひとしきり罵言をぶつけたあと、スペイギールは諦めた。目だけをのぞかせ、ふたたびヘスティアをうかがうと、足元へ視線を落とす。

「…………エオルゼは長女だから。セインとおれの面倒をよく見てくれた」

 虫の羽音ほどの声量だった。そう、とヘスティアは相づちを打った。

「料理や掃除の手際もよくて、すごく助かってるの。お客様だから気をつかわなくてもいいのに、水を汲みにいっているあいだに火を熾してくれたり、アルトの相手をしてくれたりしてね。本当にありがたいわ」
「…………昔から家の手伝いをしてたから。姉さんみたいに、毎日母親と一緒に料理をしてた」
「今も好きなのね」

 ひやりとした山颪が前髪をそよがせる。肯んじずに、スペイギールは村道へ目を注いだ。
 何者に脅かされることなく、自由に土いじりをする幼子と、かたわらでそれを見守る女性。傾いた陽の光はふたりの髪を黄金に弾いて、風が過ぎるたびにきらきらと鱗粉が舞うようだった。足元に落ちた影は濃く、大きな影が小さなそれを守るように長く伸びている。
 どこか懐かしく、うつくしい光景だった。スペイギールのもっともやわな部分が甘く切ない想いに占められて、心の蔵が締めつけられるように痛んだ。