第一章 君の夢 1

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 村の門をくぐる旅人の、その腰に帯びた剣に気づいたとき、ついにその時が来たとスペイギールは悟った。
 ちょうど野良仕事を手伝っている最中だった。幼なじみのセインと家の裏手に薪を積みあげていると、いつもは静かな村がにわかに浮き足立ったのを肌で感じ、ふたりは顔を見あわせながら表へ回った。
 村の中央にある家から境界の柵まで見通せるほどの小さな集落だ。見慣れない姿なら、いやでも目に止まる。
 丸太を組んだだけの簡素な門を通過する影の数は、およそ十四、五人だろうか。
 よそ者の男たちは埃に汚れた毛織りの外套をまとっていたが、全員武装していることから、ただの旅人ではないことがうかがい知れる。歳はまばらであるものの、みな体格がよく、なにより旅人特有のくたびれた雰囲気がない。
 彼らはどこか見知った様子で、村の中央を目指していた。森の深奥にあるこの村までは長旅だっただろうに、凜と引きしまった表情からは誇りさえ感じられた。
 堂々とした男たちの威容を目にした瞬間、野良仕事に汗ばんだスペイギールのうなじがぞっと粟立った。口は渇き、焦りが腋をじっとりと濡らす。
 今すぐここから逃げ出したかった。しかし足は地面に縫いつけられてしまったのか、ぴくりとも動かない。
 いつのまにか村人は口を閉ざし、訪問者に道を譲っていた。これから何が起こるのか、彼らにもわかっているのだ。そしてその瞬間に立ち会うために、一行のうしろを無言でついてくる。
 やがて人数を増した行列は、硬直するスペイギールの前にたどりついた。老齢の男が先頭に進み出る。彼が片手を上げると、行列はぴたりと足を止めた。
 どうやら隊をまとめている人物のようだった。歳は六十ほどだろうか。老いよりも身にまとう厳格さがはるかに勝っている。目が合うだけで、こちらが尻ごみしてしまうような威圧感を持つ男だ。
 彼は立ち竦むスペイギールを見つめ、そしてちらりとセインへ目配せすると、固く結んでいたくちびるを開いた。豊富な知識と経験に基づいた、深く響く声だった。

「ギゼルベルト・ヘリオス様のご子息であらせられる、スペイギール様でございますか」
「――はい。こちらのお方が」

 答えたのはセインだった。ともに育った同い年の少年はあごを引くと、その場に膝をついてスペイギールへ臣下の礼を取った。
 何をしているんだ、と笑い飛ばしたかった。
 ついさっきまで遠慮なく冗談を言い、こづきあっては、運んだ薪の山を競っていたはずだ。なのにセインは柳のようにこうべを垂れたまま動こうとしない。スペイギールの頬もひくりとも動かず、舌は口蓋に貼りついて喉を震わせることもできずに、ひたすら幼なじみのつむじを見おろすしかない。

「スペイギール・ヘリオス様」

 男の呼びかけに操られるように、ぎしぎしとスペイギールの頭がもたげられる。
 動揺に揺らぐ少年の碧い瞳をとらえると、男はなめらかに片膝を折った。一人、また一人とそれに倣い、一行の全員がその場に跪く。

「レノックス家が当主、ラズウェーンが報告いたします。……アダール様がお亡くなりになりました。我らの力が及ばず、申し訳ございません」

 それは年の離れた三兄の訃報だった。
 がつん、と背後から頭を殴られたような衝撃がスペイギールを襲った。視界は黒く霞み、噴きだした冷や汗が背中をしとどに流れおちる。胸郭の下で、心臓が狂ったように暴れだす。

「つきましては、今より弟君であるスペイギール様を我らが主とし、命を賭してお仕えいたします」

 続けられた言葉は、槍となってスペイギールの心臓を貫いた。弾んでいた呼吸は止まり、ぶれていた焦点は老いた男の額に集中する。
 男は一心に注がれる視線を受けとめると、強ばっていた頬をわずかに緩めた。あとにも先にも、ラズウェーンが微笑んだのはこの時だけだったとスペイギールは思う。

「王よ。お迎えに参じました。どうぞ、我らとともにお出でください」

 あぁ――と、少年の喉が、か細くうなる。
 長年恐れていた悪夢がついに現実になった。のどかな日々の影に潜んでいた恐怖が、人の姿をとってやってきたのだ。
 これが本当に夢だったらどれだけいいだろう。夢なら――夜が明ければ消えてしまう悪夢なら。

(一刻も早く、覚めてしまえばいい)

 

 

 

 白銀色の万年雪を頂く連山の麓に、常夜とこよの森と呼ばれる広大な森林地帯がある。
 下草を均した間道は通っているものの、行き来するのは猟師か木の実などの採集者か、または街道を通れない者ぐらいで、わざわざ訪れる人は数少ない。鬱蒼と生い茂る木々は頭上からの陽射しを遮り、一帯を覆う薄闇は自然と人の足を遠ざける。
 遥か高みから森を見下ろす真白の連峰は、天然の要塞としてル・マヌン王国の東北端の国境を担っており、その足元となれば王都から遠く離れた田舎だった。
 そんな辺境の森に浮かぶ孤島のような村が、スペイギールのふるさとだった。
 生まれたのは別の土地だが、三歳の時に母親を亡くしてエルー家に預けられて以来、森を出たことがない。だから木々が途絶えて草原へ出た途端、見晴らしのよさに尻がむずむずして落ち着かなかった。
 ラズウェーンが現れた瞬間から、スペイギールは村を出る運命に立たされた。十六になるまで育ててくれたセインの母親も、かわいがってくれた村人たちも、拒否権を与えてくれなかった。
 みな、スペイギールがいつか背負わなければならない役目を知っていたのだ。そして少年が悪夢の到来を悟ったように、さだめが現実に追いついたと理解して送り出した。
 村を出て歩くこと二日、一行は街道沿いの宿場町に到着した。一本しかない目抜き通りには、辺境を訪れる旅人のための宿屋と商店が数件、軒を連ねていた。
 王国のほかの都市を知る者の目には、辺鄙で寂れた町としか映らないだろう。しかし、人口数十人の寒村で育ったスペイギールには、何もかもがめずらしい。
 樫や楢の木々のかわりに二階建ての家々が周りを取り囲み、石瓦を葺いた三角屋根の向こうから太陽が細く光を落としている。人々の声が絶えず鼓膜を騒がし、荷車が土埃を巻きあげながら通り過ぎていく。
 店先には黒パンや雑穀のほか、麦酒エールや蒸留酒、肉や青果を干した保存食、塩などの調味料、薬草に火打ち石、藁に獣脂を塗った灯心、毛皮や筆記具など、旅に必要と思われるものが一通り陳列されていた。
 スペイギールがあまりの品揃えの豊富さに目を奪われていると、店員の女が「何が欲しいんだい?」と話しかけてきた。そのまま女は捲し立てるように商談を始める。ラズウェーンが腕を引いてくれなければ、迫力に気圧されたまま永遠に店先に突っ立っていただろう。

「この先の宿屋で、仲間がスペイギール様をお待ちしております」

 我に返り、スペイギールはラズウェーンの横顔を振り仰いだ。

「そんな……、聞いてない」
「先ほど申しましたが上の空だったようで。名乗るだけで結構です。背を伸ばし、堂々となさいませ」

 取りつく島もなかった。不満を舌先で転がしているあいだに、目的の宿屋は目の前に迫っていた。
 ロバの看板を軒先にぶら下げたそこは、一階に食堂を、二階に客室を配した、ごく一般的な造りだった。食事時ではないせいか、こぢんまりとした食堂に客の姿はなく、壁に染みついた脂の匂いが部屋の隅に溜まっている。
 廊下の先にある階段は薄暗く、人の往来もなかった。じっと息を潜めて物陰に隠れているような気配だけが、上階でちらついている。
 ラズウェーンが階段に足を掛ければ、スペイギールも否応なしに従うしかない。背後からも無言で促され、のろのろと片足を上げる。
 段を上がるたびに、ぎしぎしと古い床板が軋んだ。低い呻き声に誘われるように、スペイギールの胸もぎしぎしと痛み出す。
 ここまで来たら、もう引き返せなかった。そもそも逃げる機会は一度も無かった。まるで虜囚のように武装した男たちに囲まれているし、たとえ逃げ出したところで養母は迎え入れてはくれない。彼女の望みはラズウェーンと同じなのだから。
 案内された部屋の扉が開かれた瞬間、何十もの視線が一斉にスペイギールに突き刺さった。押し潰されそうな圧力に息を呑む。そのときには彼らはすでに膝を突いて、スペイギールに頭頂を晒していた。
 全員、年上の屈強な男ばかりだ。だというのに、背も体格も劣るスペイギールを疑いもなく仰いでる。その異常とも言える光景に、静かだった呼吸がにわかに弾みはじめる。

「……名乗りを」

 見かねたラズウェーンが耳打ちをした。ほんの少しだけ戻った理性が、期待に満ちる男たちの表情を捉えた。
 その中に、ぽつんと見慣れた髪の色があった。

「ぁ……」

 スペイギールのすべての感覚がそこへ集中する。記憶に鮮やかに焼きついた色と、少しも変わらない。
 薄く開いたくちびるを舌で舐め、がらがらの喉を唾液で湿らせる。落ちた前髪に隠れた顔を見たいがために、スペイギールは嗄れた喉を震わせた。

「……ギゼルベルト・ヘリオスの四男、スペイギールだ」

 干涸らびた声は、部屋の隅まで届いたかわからない。しかし、一歩踏み出せば届くところにいる彼女には、聞こえたはずだった。
 だが、歓迎の笑みを浮かべる男の隣で、栗色の頭は俯いたまま石像のように固まっている。顔を上げる素振りも、スペイギールの声に反応した様子もない。
 汗にまみれた全身から、さあっと熱が引いていくのをスペイギールは感じた。

「スペイギール様。こちらに控える者たちは皆、お父上の代からの忠臣です。あなた様の剣となり、盾となってお仕えいたします」

 ラズウェーンの言葉も虚しく響くだけで、頭の中で意味を成すことはない。彼はスペイギールへの説明も兼ねて長く語っていたが、貝のように口を噤んで立ち尽くす少年が自失しているのに気づいたのか、やがて早々に話を終わらせた。

「お疲れでしょう。隣で休まれてはどうですか」

 ぼんやりとしたまま、スペイギールはうなずいた。見知らぬ男たちの晒し者になるのはすでに限界だった。
 逃げこんだ隣室には、藁を詰めた大きな寝台が二つ置かれていて、それ以外の家具は見当たらなかった。ひとつの寝台に数人で雑魚寝するのだろう。勢いよく腰を下ろすと、きしきしと藁の擦れる音がする。
 額を押さえた指の隙間から室内を盗み見れば、いつの間についてきたのか、男がひとり立っていた。男は扉のそばに位置を定めて、俯くスペイギールの様子をうかがっている。おそらく、護衛を兼ねた目付役だ。
 重いため息が腹の底から漏れる。完全にひとりにはなれないらしいが、何十人の前に立たされるよりはよっぽどましだと思うことにした。
 すでに、自分は自由気ままな身分ではないのだ。ラズウェーンが悪夢を伴ってやってきてから――もっと時を遡り、父や兄たちが次々と命を落としていった頃から、スペイギールの将来はひと筋に収束しはじめていた。
 ずっと昔から気づいていた。ただ、できるかぎり目を反らしていただけだ。
 まぶたの裏にはざらざらとした闇が渦巻いていた。疲労が眩暈とともに押し寄せてきて、スペイギールはしばらく思考を渦に委ねた。
 どれほどそうしていたか――キィ、と戸の開く音に沈んでいた意識が起こされた。顔を上げると、セインの姿が扉の前にあった。慣れない長旅に疲れていた顔には、どこか安堵が混ざっている。

「エオルゼは? 話したんだろ?」

 セインはほんの少し目を丸くしたものの、すぐに納得したようにうなずいた。

「元気そうだったよ。母さんからの手紙を渡したら、うれしそうにしてた」
「ほかには?」

 閉じた扉と幼なじみへ、忙しなく目を配る。しかし、セインに続く人影は現れない。

「スペイギール様に誠心誠意仕えなさい、って釘を刺された」
「……それだけ?」

 そう、とセインがあごを引く。スペイギールの中心で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
 鉛のように喉に痞えていた息をゆっくりと吐き出すと、栓が抜けたように全身から力が失われていった。だんだんと何もかもが億劫になってくる。目を開いているのも面倒で、両手で視界を遮って背を丸める。

「ギール様?」

 間の抜けたセインの声が神経に障った。馬鹿、と悪態を吐きたかったが、吐き捨てる余力はもう無かった。
 最後に会ったのは五年前だ。家長である父が戦死したから自分が跡を継ぐと、家族に報告をしに村へ帰ってきたときだった。
 そのときも痩せたとスペイギールは思ったが、さっき見た彼女は窶れたと表現した方がふさわしい。栗色の髪はあいかわらず布で覆われることもなく、男のように短く切り揃えられていた。血の気のない顔は痩せ細り、榛色の瞳は澱んで、目の下には隈が浮いていた。
 誰もがスペイギールに希望を抱いていた。なのに、彼女の蒼い顔には虚ろとした色しかなかった。
 会えば、喜んでくれると勝手に思っていた。弟との再会を喜ぶように、スペイギールにも声をかけてくれるだろうと。
 だが、いつまで待っても望む人は訪ねてこない。どうやら自惚れていたらしい。
 ざらざらとした暗闇の中、思い出に住む少女がスペイギールに笑いかける。親しげに自分の名を呼ぶ声に、麻痺していた心がほどけていく。
 胸に生まれたと同時に持て余した感情を、スペイギールはくちびるを噛んで耐え忍んだ。